あと1分時間をください。
タイトルのセリフは、1984年の紅白歌合戦で司会の鈴木健二アナウンサー(当時)が発したセリフです。
本題はそれではなく、鈴木健二氏の紅白は何だったのかを、一視聴者の感想に過ぎませんが考えてみたいと思います。
1. 異例の出来事
1983年~1985年に紅白歌合戦の司会を務めた鈴木健二氏ですが、打診があった当初はあまり乗り気ではなかったようです。そもそも当時、紅白に鈴木氏を起用する事自体が極めて異例だったと思います。
紅白はNHKを代表する国民的看板番組でしたが、芸能・歌謡番組の集大成との見方もできます。そのため、宮田輝氏、山川静夫氏等芸能番組の司会を専門的に務めたアナウンサーが司会に起用されていました。
一方、鈴木氏は長年報道番組のキャスターを務めてきた方です。畑違いの歌番組をやるのに抵抗があってもおかしくないでしょうし、制作サイドは「自分達の領域に報道側が侵入してくるとは何事!?」と思われてた可能性もあると思います。
2. 山川氏の紅白と鈴木氏の紅白
私が小さい頃であまり覚えてはいませんで、あくまで放送博物館にある映像を見ての話ですが。
1974~1982年、1991年、1992年と司会を務めたのが山川静夫アナウンサー(当時)です。山川氏の紅白は歌舞伎の大舞台に見立てたスペクタクルショーだと思います。山川氏は歌舞伎解説家の肩書を持つエンターテイナーでもあります。合戦を題材にした演目は歌舞伎に多数あり、山川氏もステージでは対決姿勢を前面に出す等歌舞伎の知見がいかんなく発揮されています。
一方、鈴木氏の紅白は歌を通したドキュメンタリーでしょう。出演する紅白両軍の歌手全員にインタビュー取材を行っていて、ステージ上での曲紹介を通してメッセージとして伝えていました。鈴木氏が紹介するのは白組だけですが、紅組の分も担えるように準備はしていたそうです。報道キャスターとしての矜持でしょう。
また、衣装こそ派手にしていたものの、勝敗よりも全体の盛り上げを重視していた様にも思いました。1985年の紅白では紅組司会とトリを務めた森昌子さんへ「(労いの)温かい拍手を送ってあげて下さい。」とのメッセージを発し、紅組優勝が決定した際は悔しがる様子もなく、森さんが倒れないように支えながらお祝いの言葉を伝えていました。
(余談。1994年と1995年白組司会の古舘伊知郎氏は、紅組優勝の瞬間にものすごく悔しがっていました。)
3. 鈴木氏がもたらした事
実は鈴木氏が降板した翌年、1986年から司会の体制が大きく変わりました。
1985年までは紅組司会は女性タレント(歌手・俳優等)、白組司会は男性NHKアナウンサーでしたが、この年から白組司会も男性タレント(歌手・俳優等)を起用し、NHKアナウンサーは総合司会として全体の進行役に専念する様になりました。それまでも総合司会を担当するアナウンサーはいましたが、得点集計等黒子に徹していてあまり目立つ存在ではありませんでした。それを両軍の間に立ってステージ前面に立つ様に変わり、総合司会と紅白両軍司会という3人態勢が確立されたのです。
これも、多分鈴木氏の提言がいくらかあったのではと推測します。つまり、白組だけNHKアナウンサーがやるのは不公平ではないかと。映像を見ると、鈴木氏は白組司会と総合司会を兼ねたスタイルに見えるのです。想像以上に負荷が重かったのではと思いますし、理事という立場もそうさせていたのかもしれません。
その他、平成以降は松平定知アナウンサー(当時)、三宅民夫アナウンサー(当時)等、看板ニュースキャスターが起用される機会も増え、結果的には報道側にも紅白の扉を開いたという見方もできると思います。個人的には松平氏が司会を務めた1990年の紅白歌合戦、生中継という特性を生かして東西統一されたばかりのベルリンと中継したりと報道的な要素を取り入れた取り組みも新鮮で良いなと感じていました。
なお、現在では司会者も紅白の区別はしなくなってきています。賛否両論ありますが、僕は良い傾向だと思っています。従来の勝敗というやり方では合わない部分もあるでしょうから、そこから多様性を前面に出せる様に、場合によっては番組自体を発展解消させてほしいとも思っています。