見出し画像

「羨望」を「諦め」に換えて、置き去りにしたまま。

自分の中にある他人を羨む気持ちに対して、きちんと向き合ってみてもいい時期が来たのかもしれない。

自分が何に対して心を動かされているのか、そこに何かヒントが隠されているのかも?

改めて人生を振り返ってみると、私が今まで抱いてきた"羨望"は、その場で全て"諦め"に置換して、その時空に置いてけぼりにしてきてしまったのかもしれないなあと思った。

自分には手に入れられない物だと思って、自分にはチャレンジするその資格もないと思い込んでいた。

言い訳を媒介にして、羨望を諦めに換えて生きてきた。それで一体何が生まれたんだろう、何も生まれなかったじゃないか。

運良く別の道に逸れて生きては来られたけれど、あくまでも、ただただ"生きてきただけ"みたいな感覚だ。

動かなきゃいけない時が来た、それだけは分かる。もっと前から気づいて立ち上がっていれば、時間があれば。その時その時に真剣に向き合って、本気で悔しがれていればよかったんだろうな。

自分の人生に真剣に向き合って来なかった。でも、これは決して自らの積極的な怠惰から来るものではなかったと、確信を持って言える。

家庭や学校の環境が、あまりにも自分の気質と合っていなかった事が起因していると思う。結局他責かよ!クズだな!と思う人も居るかもしれないけれど。

自分の置かれた環境を自分で考えて、人の意見も沢山聞いて、見る角度を何度も変えて何年も掛けて、辿り着いた結論だ。家庭環境と学校と最初の会社の環境は、確実に悪かったと思わざるをえない。

それに家庭内で、私はケアテイカーであった。ケアテイカーであった子供達は、子供時代に自分の人生を構築出来て来られなかった人が多いのではなかろうか?

これ以上は長くなってしまうので、話を戻そう。環境の悪さにより自我が抑圧されていた私は、いつからか羨望を諦めに換えて置き去りにしていくという世渡り術を身につけて、地獄の時代がただただ過ぎ去っていくのをじっと待っていた様に思う。

自分の事なんて触れないで欲しいし、居ないもんとして扱って欲しいし、もちろん学校の同級生達の記憶からも消えたかった。

この世の全てが私を観測出来ない状態で、この世を一方的に観測だけ出来たらいいのになと、何度思った事か。

映画のキャッチフレーズで「私は、貝になりたい。」との言葉を聞けば、深く共感した。

「本当だよ。貝にでもなって、誰にも見つからずに、ひっそりとこっそりと、微動だにせず、一生を終えたいよ。」

学生の頃に何度思ったんだろう。

こうして自我を押し込んでひた隠しにして生きてきた子供時代。そりゃ、大人として生きていくのに必要な心の成長過程をきちんと辿れる訳もなく。

ここまで書いてる事はめちゃくちゃ暗いけど、書いてる自分の気持ちはどこか落ち着いていて、穏やかだ。落ち込んでいる訳でもない。むしろ凪いでる程だと思う。

ともかく、この羨望を諦めに換えて生きて来ざるをえなかった自分の人生に気づけただけでも、大きな一歩なのかもしれない。

ここから少しずつ、自分の人生を再構築していきたいと思う。人より歩みは遅いかもしれないけれど、これからの私は羨望を諦めに換えない生き方をしていきたい。

羨望を希望に換えて、生きていこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?