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さよなら 3.11

3月11日。これを読んでくれてる人たちは何を思い浮かべますか?

誰かの誕生日だな。とか、まだ記憶に新しい未曾有の大災害を思い浮かべるでしょうか。

時というのは、待ってはくれないもので東日本大震災から9年が過ぎようとしています。

私はいつになったら、好きな人に震災を経験していることを打ち明けることができるようになるのか。ふと気になりました。今まで付き合った人に1人も震災の話をしたことがないからです。出身地を言えば察しのいい人は、震災大丈夫だったの?と聞いてくれますが、うん。それなりだった。と笑ってごまかすことしかできない私はいつ打ち明けられることができるのか心配になったのです。引かれたらどうしようと臆病になるわたしがいます。

これから将来生まれるかもしれない我が子にも自分の経験をもしかしたら話せないのかもなと心のどこかで思っています。それは私が震災の経験を今まで他人に話して良い反応も悪い反応も受けてきたからだと思います。私がいつ割り切って東日本大震災の話を大切な人にできるのか。3.11という数字とさよならできる日はいつなのかなって。だから題名が「さよなら3.11」。
面と向かって打ち明けられるくらい強い人になりたいなって想いです。

9年前の今日小学6年生だった私へ。9年後は謎のウイルスの感染が拡大してあなたと同じように学校に行けなくなった子供たちがたくさんいます。不思議なもんだよね。私も卒業式は延期になったし、学校には1ヶ月半行けなかった。普段はしたくない勉強もできませんと言われるとしたくなったね。2020年はインターネットが発達してオンラインで勉強を教えてくれる人がいるんだよ。パソコンクラブだったあなたもそんなふうになるなんて思ってなかったでしょう笑。すごいよね。

2日前に起こった地震で友達と行く約束してた釣りにいけなくなって、今日こそ行くと心を躍らせている頃だよね。それとも仲がめちゃくちゃ良かった班のメンバーで給食の卒業お祝いメニューの紅白大福を奪い合って喧嘩していた頃かな。

3月11日。あの日釣りに行く時、携帯を持っていなかった。私はいつもは全然そんなことないのに、猛烈に母親に電話がしたくて公衆電話を探していた。自宅に届いていた吉本の本を玄関で読みすぎたせいで待ち合わせ場所に遅刻しそうだったから結局見つけられず待ち合わせ場所についてしまったんだけど。あの時の焦りは今でも忘れない。

釣具屋で買い物をして海岸について、妙に潮がひいている海を見て不思議だねと言いながら、バケツに水をくんだり海に釣り糸を垂らしていた時、水面が揺れて大きな魚がかかったとみんなで喜んだ瞬間、地面が割れるほどの大きな地震に襲われて、立っていられなくなった。いや、大きな魚ちゃうんかい。と大きな恐怖を無視するようにみんなで笑っていた。

私は母親から、津波が来るときは潮がひくことで海岸の壁や海底が見えてウニやアワビが取れるんだってときいていた。目の前の海は明らかにどんどん潮がひいていて、これはやばいと感じた。私たちのいた岸壁は海上保安部がすぐ隣にあって、そこの3階から私達に「危ないからそこにいろ!」と叫んだおじさんがいた。私達が大人の言うことを聞くような子供だったら今このノートを書いていなかったでしょうね。小学3年の頃から当時通っていた釜石小学校で防災教育を受けていた私たちは地震がきたらとにかく逃げることが頭に刷り込まれていた。その後友達と私は、山に直結している高台に逃げるか、高いアパートに逃げるかで揉めて結局高台に逃げた。

地割れしたアスファルト。倒れて電気のついていない信号機。渋滞する車。焦燥したり不安から泣き叫ぶ大人。全てを横目にとにかく走った。

それから約30分後。大津波が襲った。一言で言えば洗濯機。そんなかんじ。大量の水がぐるぐるとまちを掻き回して、脱水のように水がまた海へと戻っていく。

いつも遊んでいた公園。遊びに行っていた友達の家。駆け回っていた道路。よく釣りしていた海岸。とにかく目の前のものすべてが黒い水に飲まれて、映画のワンシーンのような光景に大きな恐怖で体が震えていても、恐怖を無視して何かにつけて笑うしかなかった。

それからの避難生活は想像以上のものだったけれど、人生で一番全国各地の世界中の人たちに会えた時だったと思う。
避難生活で食べたものの中で一番忘れることのできないものがある。それは3.11から2日後に食べたチキンラーメン。誰かがスーパーの跡地の瓦礫のなかから拾ってきたチキンラーメン。泥まみれのチキンラーメンも意外と包装が丈夫で食べることができた。忘れられないなぁ。

私には可愛い可愛いいとこが2人います。
1人は11歳で震災の時は12ヶ月でした。そのいとこは当時大船渡市に住んでいて、地震や津波を逃れ生きていました。たった生後12ヶ月の赤ちゃんでも、その後3歳になろうが4歳になろうが津波の映像を見るのも話を聞くのも怖がっていました。現在小学校5年生の彼女にいままで直接私の震災の話をしたことはなかったけれど、ある時、「私のかっこいい人」といういとこの作文が叔母から送られてきて、読むと私のことが書いてありました。そこには、

私のいとこのお姉ちゃんは釜石市で津波を経験しました。復興への取り組みをしていて、災害で大変な他の県にもボランティア活動に行ったりしています。かっこいいと思う理由は自信があるからです。私も自信を持って何がしたいです。

と書いてありました。さりげなく知っていてくれることが嬉しかった。そして私の歩んできたことが彼女の自信をつけることの第一歩になってくれているのはもっと嬉しかった。どうやらのその後副学級委員に立候補してなったんだとか…。
このいとこの作文が自らの経験に負けず、恐れず頑張ろうと思えたきっかけでした。


震災から9年。長いようで短い。何度寝て起きてもあの日がずっと続いているようなそんな気がしています。今、東北各地はどうなっているでしょう。わたしの地元釜石市では、全ての当たり前を奪った海から綺麗な花火があげられるほどになりました。最近の流行っているウイルスが落ち着いたらば、今すぐとはもちろん言いません。
よかったら遊びに来てみてください。再建の兆しが見えています。新しい生活文化や基盤ができ始めています。たくさん大変なこともあったけど、それでも優しい人、美味しい魚、美味しいお酒が待っています。

皆さんが(もちろん私も)みること、考えること、感じることが東北の復興へとそして皆さん自身の命を守る防災になるんじゃないかなと思います。

それぞれの3.11
今年もうまくやり過ごした3.11
いつか辛さとさよならできるまで仲良くしてね。




P.S.
ずっと書きたかった事をかけました!
前回のnote
<https://note.com/terayuki0217non/n/n5a18d162da7d> 前後編合わせて10000viewを超えました!たくさんの方に読んでいただき本当にありがとうございました!
今回も拙い文章でしたが、お付き合いいただきまして誠にありがとうございます。

問い合わせ先 >>> terayuki0602non@gmail.com まで


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