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たったひとり、それでも。
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みなさま、こんにちは。
創作系寺嫁のゆかでございます。
みなさまは、テレビをご覧になったことがありますか?
NOと言う方は、いらっしゃらないと思います。
我が家には、テレビがありませんが、そんな私でも、街のあちこちでテレビを見ることがあります。
私が大学生だったときにも、もちろんテレビを持っていませんでしたが、バイト先などで見る機会はたくさんありました。
なんと言っても、テレビ局でテロップを作るバイトをしていたときは、周り中テレビだらけでしたしね。
そんな中、一体どこで見たのか覚えていないのですが、強烈な印象に残った番組がありました。
その番組は、おそらく、切れ切れにしか見ていない中、うまく編集がされてあるドキュメンタリー番組だったおかげで、概要がすぐに分かりました。
とある大学生だか、大学院生だかの女性が、とある発展途上国に行ったときのことです。
それが、NGOか何かのボランティア活動で行ったのか、それとも単なる興味関心から出向いた個人旅行だったのかは定かではありませんが、
その番組の主人公として登場した彼女は、その国に住む貧しい少女たちが、居に添わぬ性的搾取をされている上で、さらに困難な状況に陥っているということを知ったのです。
具体的な内容は忘れましたが、貧困にかかわる何かだったと思います。
私が衝撃を受けたのは、その内容ではなかったので、大変うろ覚えです。
私がまるで天啓を受けるような衝撃を感じたのは、その女性の行動原理でした。
その女性は、その発展途上国で不遇な思いをしている少女たちを、救いたいと思いました。
しかし、彼女が日本に戻り、あらゆる支援団体を調べても、その国を支援していて、なおかつ女性問題を取り扱っている団体はひとつもなかったのです。
例えば、かわいそうな保護犬が殺処分をされている事実を知り、なんとかしてそのかわいそうな犬たちを助けたいと思った人は、そういう殺処分の運命を待っている犬たちの里親を探す支援団体に入り、活動することができます。
自分が活動するのが難しければ、寄付でもいいでしょう。
ですが、彼女が知った事実に関して、手を伸ばしている団体がひとつもなかったのです。
彼女が、そこで何をしたか。
彼女は、自分自身で、その支援団体を作ったのです。
テレビ番組の中で、取り上げられていた台詞があります。
「わたしがしたら、誰か一人でも、助けようとしている人がいることになる」
驚きました。
普通なら、そこで諦めるか、もっと大きな団体、ユニセフとか、赤十字募金とか、そういうところに意見書を送る程度がせいぜいです。
だって、だれもやっていないんですもの。
だれもやっていないのに、自分だけがあがいても、何ができるとも限らない。人間たったひとりに、そんな大それたことができるはずがない。
おそらく、100人のうち、99人がそう考え、99人がそうするでしょう。
100にんのうち、残りの1人は、意見書を書くかもしれませんが、彼女はその100人のうちの、だれにもなりませんでした。
その番組を見てから、私は、「ゼロよりは、イチ」と思って行動できるようになりました。
自分が良いと思ったことをやるために、理由は要らない。ゼロのままにしておくよりも、イチの実績を残すことには意味がある、と思えるようになったからです。
今、その新しい支援団体を立ち上げた彼女は、どこで何をしているのだろうか。
わたしは時々考えます。
わたしと同じように、子育てに奮闘しているかもしれない。
外国の、わたしが知りもしない名前の街で、誰かを助けているかもしれない。
どちらにせよ、彼女の起こしたバタフライエフェクトは、わたしまで届きました。
その国の少女たちに彼女の活動が、どう作用したかは分かりません。
うまくいったのか、いかなかったのか、詳細を忘れたわたしには、知ることもできません。
そして、わたしはといえば、これから先も、間接的にしろ、直接的にしろ、その国の少女たちを助けることはないのだろうと思います。
が、それでも、わたしは、彼女のことを思い出して、彼女が見たことのない場所の誰かを助けるため手を持つことができました。
彼女は、その国の少女たちを助けようとしたことで、わたしの良心に勇気を持たせることができた、と言えます。
明日、わたしが、困っている人を助けたなら、その人が、わたしに向けてくれる感謝の一部は、確実に、とある国の少女たちを、助けようとした彼女のものとなるでしょう。
もしかしたら、わたしが助けたその人が、別の人を助けたならば、そしてまたその人が別の人を助けたならば。
行動のバタフライエフェクトが、そうやって、たくさんの人に伝わっていけばいいな、と思いながら、今日もわたしは、お困りの方にお声をかけようと思うのです。