地獄の唱導と芸能―絵解き・落語・芝居/後篇
書き手:渡 浩一(明治大学国際日本学部教授)
表紙:「十界双六」(国立国会図書館所蔵)
地獄巡りの物語とその絵解き
仏教の唱導活動によって地獄の具体的イメージが広まってくると、地獄巡りなど地獄を舞台としたさまざまな物語も生まれ、そうした物語も多く絵画化されて絵解きされてきた。
たとえば、大和郡山市の矢田寺の『矢田地蔵縁起』は、受戒を望む閻魔王の招きで閻魔王庁に招かれ王に菩薩戒を授けた満米上人がお礼に地獄見学をさせてもらい、現世に帰還後地獄で出会った地蔵そっくりの地蔵像を造らせ安置したという本尊由来譚とその地獄抜苦の霊験譚からなるが、掛幅絵や絵巻が伝わり、絵解きされてきたと考えられる。
もともと支院であった京都市の矢田寺では、同寺に伝わる重文絵巻の江戸時代の掛幅仕立ての模写本を用いて昭和40~50年代頃に住職が台本まで自作され絵解きをされていた。また、毎月特定の日に詣でるとそれぞれ地獄の責め苦を逃れられるなど格別のご利益があるという矢田地蔵の「欲参り」信仰を絵画化した「矢田地蔵毎月日記絵」も絵解きされていたであろう。
「欲参り」は中世に広まっていた逆修信仰の影響が強いと考えられるが、その逆修を具体的に説いた『逆修講縁起』が伝わる閻魔信仰で知られる大阪市平野の 長宝寺の『よみがえりの草紙』は、逆修を人々に勧める役割を果たすために閻魔王に招かれて地獄・六道巡りをしたうえで閻魔王の長説法を聴いて蘇生した慶心尼の物語で、内容そのものに地獄や六道の絵解きや説教を彷彿とさせるものがある。この物語を抄録し、2場面の絵も載せる『長宝寺縁起』は絵解きされていたと考えてよかろう。
閻魔信仰といえば、「閻魔の氏寺」と称される香川県さぬき市の 志度寺に伝わる、閻魔庁や地獄の場面も描かれる『志度寺縁起』も絵解きされていたようである。
お盆の仏教的起源伝説である目連救母説話は餓鬼道からの救済を説くだけのものと地獄巡りの要素を含むものとに分かれるが、後者の地獄での母子再会場面、即ち、地獄の釜から獄卒が串刺しにした母を目連の前に突き出す場面はしばしば地獄絵の中に描かれる。熊野比丘尼が絵解きした「熊野観心 十界曼荼羅」や立山の御師が絵解きした「立山曼荼羅」にもこの場面は描かれており、物語を語りながら絵解きされていたに違いない。
なお、ちなみに、『矢田地蔵縁起』で閻魔王に満米を紹介したのは、満米と師檀関係にあった朝廷の臣でありながら同時に閻魔庁の臣でもあったという 小野篁であるが、この歴史上の人物は物語・伝説の世界ではこうしたいくつかの冥官説話で知られる。かつての都の野葬地の一つであった鳥辺野の入り口に位置する 六道珍皇寺には篁が夜な夜な閻魔庁にそこから通ったという井戸が残されている。
地獄の落語と芝居
絵解き以外の地獄の芸能としては、落語と芝居が挙げられる。地獄の落語の代表作には桂米朝なども得意とした「地獄八景亡者戯」がある。見方によっては、地獄絵の絵解き的世界をパロディー化し、笑い話にしてしまった作品と言えようか。
落語は浄土宗の説経僧で笑い話集『醒酔笑』の作者としても知られる安楽庵策伝に始まるとされるので、このような作品が生まれるのは当然の成り行きともいえるかもしれない。
地獄の芝居としては、千葉県山武郡横芝光町の虫生集落に伝わる民俗芸能「鬼来迎」が挙げられる。集落の広済寺境内で盆行事として施餓鬼供養の後に集落の人々によって演じられる仮面劇で、鬼が亡者を責めたてる様などが演じられる。聖衆来迎の様を再現する来迎会(練供養)の対極にある芝居と言えよう。
結びに変えて
〈嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる〉、今でも時折耳にする言葉である。実際、地獄絵で閻魔王自ら罪人の舌を抜いている図は見たことはないが、閻魔王の部下である獄卒つまり地獄の鬼が柱に後ろ手を縛られた罪人の舌をペンチのようなもので抜いている図様はよく見ることができる。この慣用句は地獄の絵解き語りに由来するのかもしれない。こんな慣用句が今も日常会話に登場するのは何百年にもわたって続けられてきた地獄の唱導の一つの《成果》といえようか。地獄の唱導は庶民に染みわたっていたのである。
補説:熊野観心十界曼荼羅と立山曼荼羅
「熊野観心十界曼荼羅」は「心」字を中心に周りに六道に四聖(仏・菩薩・声聞・縁覚の四つの悟りの世界)を加えた十界を配した絵で、上部に誕生から死までの人の生涯を象徴的に半円形に描いた「老いの坂」が描かれる。六道の大半は地獄図で地獄の釜の場面に目連母子再会の場面が描かれる。現在、基本的に同じ図様の作品が50点以上全国で見つかっている。
この絵を持ち歩いて唱導・勧進活動をしたのが熊野比丘尼と呼ばれる女性宗教者で、中世末から近世にかけて活躍した。昔から女人禁制ではなかった熊野三山(本宮・新宮・那智の三社)の信仰である熊野信仰のセールス・ウーマンともいうべき彼女たちは、本来は熊野の地を本拠として活動していたが、次第に芸能者化し「歌比丘尼」などとも呼ばれ、各地に定住化し、なかには遊女化した者もいたらしい。
彼女たちは熊野の神々の由来を説いた「熊野の本地」や那智大社に関わる「那智参詣曼荼羅」(参詣曼荼羅とは寺社の景観図に参詣者やその寺社にまつわる霊験譚の場面などを描いたもの)の絵解きもしたようだが、「熊野観心十界曼荼羅」の絵解きがもっとも得意だったようで、主に女性たちを相手に「不産婦地獄」「二女地獄」「血の池地獄」などの〈女の地獄〉を特に熱心に絵解いたようである。
ちなみに、「不産婦地獄」は子供を産まなかった女性が堕ちる地獄で、子種を求めて竹林の堅い地面を柔らかい灯心で掘らされるという責め苦を受けるというが、経典的な典拠は不明である。「二女地獄」は浮気男が堕ちる地獄で、蛇体化した二人の女にぐるぐる巻きに締め上げられる責め苦を受けるというが、女性も蛇体化して苦しんでいるともいえる。これも経典的典拠不明である。「血の池地獄」は中国で成立した「血盆経」という短い偽経に基づくもので、出産時や月経で流す血が大地や川を汚すという罪で女性だけが堕ちるとされた地獄である。如意輪観音が救済者とされる。もちろん女性差別の地獄ばかりで現代ではそのまま絵解くことは許されない。
「立山曼荼羅」は、越中の立山の信仰に関わる絵画で、立山の景観の中に「立山浄土」(立山連峰の山々の頂上付近が浄土に比定される)・「立山地獄」・「立山開山縁起」の物語・「布橋灌頂会」の様子などが描かれる。
古来、「日本国の人は死んだら皆堕ちる」と言われた「立山地獄」は地獄谷の景観の中に描かれるが、その図様は「熊野観心十界曼荼羅」に描かれるそれと近いものがある。もちろん、〈女の地獄〉も描かれる。50点以上伝存しており、図様はそれぞれだが、描かれる場面の構成要素は大同小異である。
ちなみに、「布橋灌頂会」は女人禁制の霊山だった立山で、その麓で秋の彼岸に行われていた女人救済のための擬死再生儀礼である。この世に見立てられた閻魔堂からあの世に見立てられた姥尊(*)と呼ばれる気味の悪い老女像を数体安置した姥堂(*)というお堂まで白装束で目隠しをされた女性たちが白い布が敷かれた道を途中橋を渡って往還する行事で、参加した女性は救済が約束される。近年、観光行事として再興された。
*「姥」の字は、正しくは女偏に田が三つ。
この「立山曼荼羅」を持ち歩き、檀那場(得意先・縄張り)の村々を農閑期に回って絵解きをし、男性には夏の立山禅定(立山登拝)を勧め、女性には「布橋灌頂会」への参加や代参による山上の血の池地獄での血盆経供養を勧めたのが立山の御師たちである。御師は芦峅寺と岩峅寺という二つの麓の集落に坊を持つ行者で、立山禅定の折には檀那場からやってきた信者たちを自らの坊に宿泊させ、登拝の先達を務めた。
関連プログラム
『テラ 京都編』の公演映像は2021年11月19日(金)~12月26日(日)まで配信中です。詳細・チケット情報はこちらのぺージをご覧ください。
※チケット販売は12月12日(日)まで
頂いたサポートは、打ち合わせ時のコーヒー代として、私たちの創作活動の励みとなります。 Your support supplies our team with an extra cup of coffee to boost creative energies. Thank you!