儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕とは何だったのか
国際芸術祭「Sua TERASIA」第1期は、2024年1月12日(金)〜20日(土)に開催されました。儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕は、プログラム:創造の発表のステージとして上演されています。
「Sua TERASIA」のサイトによると、儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕は、的で芸術的な即興セッションと説明されています。加えて、このセッション自体が参加者全員への問いかけでもある、ともサイトに書かれています。
その問いかけは、「私たちの身体のなかには、まだスピリチュアルな<何か>があるのだろうか?」というものです。
儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕の外枠
会場は ジャカルタ、コムニタス・ウタン・カユ の劇場です。敷地内のスタジオ、カフェやショップを通り過ぎ、敷地の奥の階段から地下に降ります。広いとは言えない階段を降り、劇場の入り口のドアを潜ると、薄暗い空間。ホスト側のメンバーが参加者の手を引いて誘導します。座る位置はあらかじめ決められているようでした。
暗い会場内では、ステージのような空間を囲むようにミュージシャンが座っています。緊張感ある静寂の中、何が起こるのかわからないような雰囲気が漂います。
そこで行われたことを、私たちは映像配信で知ることができます。
この上演が終わった後、筆者には、「私の身体の中には、まだスピリチュアルな<何か>があるのだろうか」という問いの答えはわかりませんでした。ただ「特別な時間に参加した」という実感と、私の身体の中にはないかもしれないがここにいる誰かの中には<何か>があるのかもしれないという予感があり、高揚したのを覚えています。
そもそも儀式〔RITUAL〕とは何なのか
現代の日本においての儀式の扱いは軽いものです。人生における二代儀礼といえる、結婚式や葬式までもが簡素化されています。持ち出し費用ゼロ円が謳い文句の「ゼロ婚」や、結婚式を挙げない「ナシ婚」、通夜や告別式を行わず、直接火葬場に行く「直葬」はもはや珍しくありません。私が日常で触れる儀式は形骸化した入社式などの式典がせいぜいです。
2024年1月に、世界銀行は「世界経済見通し」の中で、世界経済の成長率が3年連続で減速していることを報告しています。日本も例に漏れず、1998年から経済の長期停滞に陥っており、生活のあらゆる面での経費削減が迫れています。例えば、筆者のような一般庶民は鶏卵を買うことにすら、躊躇を感じます。その中で、筆者には経費削減とともに、儀式に伴っていたはずのスピリチュアルな<何か>も削減されているように感じられます。
スピリチュアルを喪失した、ルーティン・アイデアとしての儀式
また、セレブ系ファッション誌の記事などでは、「セルフリチュアル」という言葉が登場し、セルフケアの文脈の中で「パーソナルなリチュアル」を持つことが推奨されています。それは多くの場合、幸福を追求し、より素敵な時間を過ごすための個人的なルーティンのことを指しており、一日の始まりのコーヒーや、眠る前の読書などが儀式として紹介されています。
より商業的な面から見ると、例えば、IKEAは儀式をウェルビーイング(個人や社会のよい状態)を実現させるものとして消費者に紹介しています。また、儀式を組織文化を変容させるアイデアとして取り入れる企業も増えてきました。
そのように、現代の日本において儀式は、ルーティンやアイデアといったより即物的なあっけらかんとしたものとして、受け入れられつつあります。そして儀式は、「素敵な暮らしのためのもの」、「生産性向上に効果のあるツール」として再定義されているのです。不変と言えるのは「日常の中の、少し特別な時間であること」ということぐらいかもしれません。
日本では、日常的に出会う儀式から、スピリチュアルな<何か>は剥離されているのです。
「私たちの身体のなかには、まだスピリチュアルな<何か>があるのだろうか?」
飛躍があるかもしれませんが、この問いは、なぜ日本ではアートとスピリチュアリティが剥がされ、離れたままになっているのか、という問いでもあるようにも思います。
それぞれの儀式との距離
儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕への日本からの参加者で、このセッションで強い存在感を示したのは通訳者・翻訳者・ドラマトゥルクの渡辺真帆でした。渡辺は、いち参加者という立場にありながら、即興的に自身の履いてきた靴に布を被せたものを瓦礫に埋もれた遺体に見立てました。そして、パレスチナの死者の名簿を見つめ、一人一人の名前を読み上げたのです。渡辺は、人間の存在を思いながら読んだと言い、且つ、自身を「儀式を持っていない人間」と表現します。
パレスチナで暮らす人々は、一族で1つの家に住んでいることが多いそうです。そのため、空爆があると1度に一族全員が亡くなることは稀ではなく、名簿には同じ名字が並びます。渡辺は名簿を上から順番に読んでいったので、同じ名字が連続して繰り返し読まれました。筆者には、渡辺がラッパーのように韻を踏んでいるように聞こえました。
韻を踏み、反復する。筆者の親族は真言宗の僧侶なのですが、渡辺のパフォーマンスは、あたかもお経の最後に唱えられる真言の繰り返しのようにも聞こえ、同時に、韻を踏んで言葉を降ろすモンゴルのシャーマンのようにも見えました。
このセッションのホストであるディンドン W.S.は、「Zekr(ディクル、ズィクル、ジクルなどと表記される)のようだった」と渡辺に伝えたそうです。Zekr はアラビア語で「口にすること」「言及すること」という意味を持ち、神の名前やフレーズを繰り返し唱えるイスラム教の祈りを指します。また、イスラム教を信仰するあるスタッフは、この名簿のことを知ると「お祈りをしたくなった」と渡辺に話したそうです。
儀式とスピリチュアルな<何か>が解離した日本から参加し、個人的な儀式すら持たない渡辺のパフォーマンスが、渡辺の意図を超えて、参加者のスピリチュアリティや宗教的な次元に影響していることを、筆者は興味深く思います。
儀式について「Sua TERASIA」の会期中に、筆者と渡辺は話をしました。その中で渡辺は、インドネシアのアーティストにとっては儀式を行うことは「まあまあ慣れていること」もしくは、「当たり前のこと」かもしれないと言いました。興味を持った筆者はインドネシアの音楽家であり、儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕の出演アーティストであるラウェ・サマガハから話を聞くことにしました。
ラウェ・サマガハは、「インドネシアのアートは儀式と切っても切れないもの」であると言います。
特に、西ジャワ州の多くの地域のアートは、ほとんどが儀式と強く結びついているそうです。その儀式は、宗教が入ってくる以前の、先祖への信仰に基づくものです。豊穣を祈ったり、収穫した米を捧げたり、感謝を伝えたりする行為が儀式として成立しました。そして、現代のおいても、日常的なものとして続いているそうです。
次に、インドネシアのアーティスト以外はどうなのだろうかと、同じく儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕の出演アーティストである、北タイ出身のトーポン・サメージャイにも話を聞きました。
北タイ伝統音楽の演奏家であるトーポン・サメージャイは、「北タイに住んでいる人たちにとって、音楽からスピリットを降ろしてくるというのは、当たり前のことである」と言います。漂っているスピリットを、音楽を通して自身の体の中に降ろし、それを観客に伝える(コネクトする)ということをやっているそうです。
音楽を通してスピリットを他者に届ける(コネクトする)ことは、儀式ではなく、より「普通のこと」。
そして、儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕で行ったような儀式的なセッションは、観客に見せるパフォーマンスとしてではなく、他でもなく「スピリチュアルな儀式」として行われるそうです。
「Sua TERASIA」第2期で実施される「終わりと始まりの儀式」の会場である、インドネシアの巨石遺跡・グヌンパダンのような聖地で、1年に1回、祖先の魂を介して祈る儀式を行うことを教えてくれました。それは、本来は、カオパンサー(入安居)と呼ばれる、僧侶や敬虔な仏教徒が修行に励む始まりの日から3ヶ月のうちに行われるものですが、この3ヶ月は雨季に当たるため、その時期を外して野外で行われます。
儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕でパフォーマンスを行った、3名の話から、アートと儀式、スピリチュアリティの距離は様々であることがわかります。
ホストのディンドン W.S.は、2024年1月10日(水)時点の打ち合わせで、このセッションでは、最初はそれぞれのアーティストがそれぞれの儀式を行い、それが1時間の中で徐々に相互に関わり始め、次第に作用し、最終的に調和するという3部構成のアイデアを話していたそうです。
では、アーティストたちは実際に儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕で何をしていたのでしょうか。
儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕でアーティストは何をしていたのか
出演アーティストである、演出家、俳優、舞踏ダンサー、自己変革ワークショップ講師のソノコ・プロウは、儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕に「それぞれが色々な旅をしている途中で、初めてこの場所で集いあって、それぞれがコンタクトを取り合えることをお祝いする気持ちで臨んだ」と話します。ここでパフォーマンスをしているのだ、パフォーマーとしての技術を見せようという意識は全くなかったとのこと。
ソノコ・プロウが儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕で行っていたことは、「皆を敬うような、信頼するような気持ちで尊重して、そこにいる」を鍵として、「瞬間瞬間をお互いに楽しむこと」「自分がいることで、相手にその場にいていただく」という働き、とソノコ・プロウは話します。「皆をその場に招いて、コンタクトをとること」とも表現していました。
確かに、このセッションの中で、筆者が盛り上がりを感じたのは、参加者らに笑顔を届けるソノコ・プロウの踊りに、幸せな雰囲気の音楽がついてきたときであることを思い出しました。
また、トーポン・サメージャイは儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕について、「とにかく即興にしよう。音楽も即興だし、ダンサーとのコラボレーションも即興にしよう」と思ったと言います。きわめて率直に「何をするか分からなかったので、まず即興」と思ったと教えてくれました。
「即興やダンサーとのコラボレーションの経験はそれほどなかった」中でのパフォーマンスという文脈で、トーポン・サメージャイにとってこのセッションは「特別なこと」だったそうです。
そして、トーポン・サメージャイが参加者にコネクトしていくことを通して、パフォーマー以外の参加者が踊り出したり、ムーブメントし出したりしていましたが、そのように、「参加者に触れることができたこと」「参加者たちが少しオープンになっていたこと」は良い体験だったと話します。
ラウェ・サマガハは、「Sua TERASIA」で行われた儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕は「特別ではない」と繰り返し伝えてくれました。こうした「儀式」は、心が裸になり、エネルギーが共有され、言葉を超えてお互いがどう思っているか感じ合える特別なものだと言います。儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕が特別なわけではなく、毎回が特別なのです。
コラボレーティブなセッション中では絶えずエネルギーが共有されているとラウェ・サマガハは言います。そして、そこに参加するアーティストたちに一方的な強制は無く、お互いがレスポンスしながら高め合うということが行われていること。彼らは、お互いに尊重しながら、共鳴し、共感し、尚且つ交渉をして、エゴイスティックではない動きや音を探していること。更に、前提として自身がオープンであると、そこにいる一人一人が「どう思うのか」が感じられ、調和を作っていくことができること。それらのポイントをラウェ・サマガハは強調します。
この3名のアーティストたちの話で共通して使用される言葉は「尊重」「コンタクト、コネクト(つなぐ)」でした。
尚、ソノコ・プロウは尊重について「まず自分を受け入れること」「皆、自分自身の背景、人生、タイミングがある。それぞれの旅をしていることを受け入れること。それが尊重すること」と話しています。また、ラウェ・サマガハはセッションの中で渡辺が名簿を読み上げた時に、「何を読んでいるかわからなかったので、1分程度、演奏しなかった」と後で言っていたそうです。そのラウェ・サマガハの態度について、渡辺は「待っていてくれた」と表現しています。筆者は、誰かが何をしているのかわからないときは待つ、という姿勢は尊重そのものであるように感じます。
「つなぐ」には、スピリットと人をつなぐことと、人と人をつなぐことの2つが含まれていると筆者は受け取りました。具体例に即しすぎるかもしれませんが、実際に筆者は、セッションの中でソノコ・プロウらパフォーマーに手を引かれて、先導され、輪の中でムーブメントを行いました。
時につながれないことが尊重されながらも、そのように手と手でつながっていくことで、受動的な観客は参加者になっていくのではないか。筆者は自身の体験からそのように感じました。
tonton(an) と tuntunan
各アーティストへのインタビューの冒頭で筆者が、「儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕に参加できて良かった」と話したところ、ラウェ・サマガハは、「儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕はパフォーマンス上演というよりも、儀式の一環と考えている。観るというより、参加したという言葉が合っている」と言いました。
全てではないものの、伝統的なアートは参加することによって「人生の指針を得る」という考え方があるそうです。
スピリチュアルの定まった定義はありませんが、例えば、医療関係者や研究者らがスピリチュアリティについて、クオリティオブライフ(QOL)や、人生における意味や価値に関わると言います。それならば、「人生の指針を得る」ことに関わる伝統的アートへの参加は、スピリチュアルな<何か>、もしくはスピリチュアリティと関連していると捉えることは可能でしょう。
また、ラウェ・サマガハは、「鑑賞すること/ただ観ること」を「tonton」と言い、「指導者はいつつも、一緒に参加すること自体で人生の指針を得ていくもの」を「tuntunan」と言うと教えてくれました。辞書的には、「tuntunan」には、「手引きになるもの/手引きとして一緒に見ていくもの」という意味もあります。
儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕で参加者たちが経験したのは、『「tonton」ではなく「tuntunan」すること』とラウェ・サマガハは言います。
儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕とは何だったか。その答えのひとつは、『「tuntunan」するもの』と言えるかもしれません。そして、それは、スピリチュアルな<何か>、もしくはスピリチュアリティが関連するものでもあります。
質のある時間を作る
思考と対話のテーブル:ラウンドテーブル2、3に登壇した中嶋確は、儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕で行われていたのは、「時間に質を作るようなこと」「皆で一緒に、質のある時間を作ること」ではないかと話していました。
筆者は、長嶋のいう「質」について、この記事で言及することには慎重になります。この点について、筆者には、皆で話し合いを続けたいという希望があることと、考えるためのアイテムが少ないことが理由です。思考を深めるには不足がある。しかし一方で、儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕のあの時間は、時間感覚が通常通りでない、「特別」で「忘れられない」、濃縮されたような、拡散されたような、安易な言語化を許さない「質」の時間になっていったことを、筆者は体験的に知っているのです。
「私たちの身体のなかには、まだスピリチュアルな<何か>があるのだろうか?」
この問いへの明確な答えにも、筆者はまだ辿り着けません。しかし、地球の中に、アートとスピリチュアルな<何か>が結びついている地域があることを、もう筆者は知っています。
さらに、「ただ観るのではなく参加すること」「お互いに尊重しながらコネクトする/コンタクトすること」と、「皆で質のある時間を作ること」は関連しているのだろうと予測しています。
儀式の夕べ 〔RITUAL NIGHT〕は、2025年1月開催の「Sua TERASIA」第2期で実施される、終わりと始まりの儀式にむけた挑戦の1つでもあると言えます。「隔離の時代」の終わりと新たな始まりを迎えるその儀式によって、このことについて考えを深めるためのどんなアイテムを得られるのか、参加者の皆によってどのような質のある時間が作られていくのか、筆者は今から楽しみでなりません。
会場である巨石遺跡・グヌンパダンは、長い石段の先にあります。筆者はそれを登り切るために足腰を鍛える日々です。
筆者プロフィール
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