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Howdy?(2024年6月号)

てらこや新聞2024年6月号は、2024年6月10日に発行されています。upが遅くなったので、今回は無料で掲載することにしました。

~願うことは・・・~

 3月、息子は小学校を卒業した。

 卒業後、中学校入学までの数週間いろいろな準備に追われつつも、一番の懸念は、目と鼻の先だった小学校とは異なり、数十分かけて自転車通学することになる息子の姿が今ひとつイメージできなかったことだった。それでも、中学校入学式の翌日から毎日自転車通学し、日に日に制服姿が板につき始め中学生らしく見えてきた。まだまだ「大丈夫か!?」と思うことはあるものの、たった一ヶ月前とは全くイメージが異なっていることに、中学校入学後一ヶ月の息子の成長ぶりには目を見張るものがある。

 息子が小学生だったとき私が最も頭を悩ませたことの一つが、「自分の名前の由来を知ろう」とか「生い立ちについて」とかといった、子どもが親に聞き取りをして内容をまとめるという課題の数々だった。
 いつから始まったものなのかよくわからないけれど、「二分の一成人式」という成人の二分の一である十歳を迎えることを記念(?)して、学校で子どもから親への感謝の手紙を発表するというような行事が行われるようになっている。息子が十歳の時はコロナ禍と重なり、そもそも学校に多数の人が集まるということ自体が憚られたため、私自身がその二分の一成人式なる行事に参加することはなかったのだが、そのことを私は良かったと思っている。
 そう思うなんて私は冷たい親なのだろうか・・・そう思う私は他の人の目にどう映っているのだろうか・・・と、全く気にもならない、とは言い切れない。残念ながら(?)私もそれなりには人の目が気にはなる(笑)。だから、なくて良かったと思う私と、私って冷たいのだろうかと思う私が、心の中でせめぎ合うのだ。このどっちつかずのせめぎ合いは、息子が小学生だったとき何度も訪れてはモヤモヤした気持ちにさせられた。

 息子が小学校を卒業するとき卒業アルバムと共に手渡された文集は、まさにその「生い立ち」についてだった。生い立ちについて親への聞き取りを行うというのが、冬休みの間の課題として出されていた。そして聞き取った内容から自分が考えたことを文章にしたものが、その文集の中身だった。「一番嬉しかったことは?(生まれたとき以外で、という注釈付き)」「一番心配したことは?」「どんな中学生、どんな大人になってほしい?」というのが聞き取りの内容だった。
 「もちろん嬉しかったこと、心配したことは数限りなくあるさ・・・嬉しいことや心配する気持ちなど毎日持ってるよ。その中で『一番』って何なんだよ・・・毎日心配しているし、毎日無事に過ごせればほっとして、それが毎日毎日繰り返されて、その繰り返しが今につながっていて、『あぁ良かった』と安堵するのだけれど、『一番』って順位付けしないといけないのかよ・・・」と心の中で毒づく私がいる。そして、それではどれを、何を「一番」にしようかと悩んで、言葉に詰まるのだ。
 子どもが持ち帰ってきた卒業文集の、ほかの子どもたちの文章を読んで、そこに「こうであってほしい」「こういう中学生になってほしい」「こういう大人になってほしい」という親の言った文言が具体的にたくさん並んでいるのを見て、私は思わずまた言葉に詰まり、たじろぐ自分がいるのをまざまざと体感した。

 私自身が子どもに望むこと・・・それは、子どもが幼稚園に通っていたときから何ら変わっていない。「困ったとき、助けてほしいとき、友達でも先生でも親でも周りの大人でも良いから、自分から『困っている、助けてほしい』と発信できること」だ。今のご時世では「男の子だから」と性差を前に出すことは憚られるのだろうけれど、男の子、男性は生きていく上でどうしても頑張らざるを得ないときが来る。言われずとも息子は頑張るだろうと自負しているけれど、困っているのに助けてほしいのに頑張りすぎて心身に支障を来すくらいなら、そうなる前に「困っている」と発信してほしい・・・私が息子に望むことはそれだけだ。こんな中学生になってほしい、○○高校へ行ってほしい、○○大学へ行ってほしい、こんな大人になってほしい、○○に勤めてほしい・・・そんな具体的な希望はほとんどない。子ども自身の人生なのだから、子どもが自らの力で学び選び取っていくもの、時に取捨選択しながら、自分の希望と現実とに折り合いを付けていくしかないものだと思っている。
 だから、私はいつも「子どもへの希望は?」と聞かれると言葉に詰まるのだ。私自身の胸のうちに収めておきたいことを聞き取りされたくないと思ってしまう。結局、子どもの聞き取りの宿題に私が選んだのは、「自立できる大人に」という非常にあっさりした、具体性に欠ける答えだった。

 中学入学後、住所や家族について体調について等、いろいろと書かねばならない提出書類があった。家族構成や自宅の略図を書いた書面には裏ページもあり見てみると、そこに中学1年、2年、3年と年度別に記入する枠があり、「将来の志望」として「子ども」の欄と共に「親」という欄もあって、これまた私は絶句した。恥ずかしながら(?)息子は、中学校に入学した今、どういう高校があって、そこでどんな勉強が出来るのか、具体的な高校名や内容はおそらくまだわかっていない。「子どもの志望なんだから、子どもだけで良いだろう」と心の中で毒づき、私は中学1年の「子ども」の欄は空白で「親」の欄には「進学」とだけ書いて提出した。
 そして、また絶句しつつ思うのだ・・・「これ、毎年、書かされるんだな」と。

 中学入学3週間後に家庭訪問があった。いろいろと体調管理面で配慮をお願いしなければならないこともあり、恐縮しつつ、私自身の子どもでもおかしくないような26歳という若い担任の先生とお話をした。その最後に聞かれた・・・「これは皆さんに聞いているのですが、『将来お子さんにこうあって欲しいという理想像はありますか?』」
 これまた私は絶句した・・・「また聞かれるのかよ・・・」と。
 短時間考えて答えたことは、やはり同じ繰り返しになっていた。「一人っ子で兄弟姉妹もなく、いとこもいない息子は、いずれ一人になる、だから出来れば家族を作って欲しい。そして、『困ったこと、助けてほしいこと』を自ら誰かに発信できること、ただそれだけが幼稚園通園時からの変わらぬ希望だ。高校進学に関しては、どういった高校であるとか何科であるとか、そういったことは彼自身の志望を尊重する。」と。
 これ・・・また来年も聞かれるのか・・・そう思って、また絶句した。後日、友人と話していて思いついたこと・・・「そっか、『理想』だもんな・・・『東大合格です!!』と言っておけば良かったのか」
 子育てに卒業はないな、私自身のことで言えば、子育てに絶句は付きものなのか!?とも思う新年度の始まりだ。

(K.T.)

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