当たり前って
とある留学生クラスでのこと。
世襲の話をしたときに
文化や芸術を世代を超えてつなげていくための世襲は意味や価値があるが、
例えば、
政治家が親の世代の地盤を継がせて子を政治家にするというのは、意味があるかという話から、
王様は、自分の子どもに跡を継がせたい。
だけど、跡取りが必ずしも優秀だったり賢かったりするわけではない。
賢くない子どもがいたときに、それを守るために権力にモノを言わせてルールや法を作る。
ということをある学生が図式化した。
「それって当たり前ですよね」とぴしゃっと切った学生がいた。
でも、「当たり前」ってなに?とも思う。
図式化したところで、「世襲」について新しい発見はなかったけど、
当たり前だと思ってきたことを、あえて図式化したり、論理的に説明してみたことは
なんだか新鮮な感覚で、
他の学生もわたしも、なんだかはっとした。
この多様性の時代、
当たり前の感覚がそれぞれ違う人たちが、それぞれを尊重することが大切になってくる。
その時に、「当たり前」という言葉を振りかざさず、自分の中の当たり前を論理的に説明できる力って、とても大事だと思う。
この留学生クラスでの授業は毎回気づきがある。
扱う内容は平易だったりするのに、そこから広がる話は浅くなく、
だからといって日本語がものすごく上手というわけでもなく、
上級クラスといえど、日本語があと一歩の学生もいる。
でも、思考は深いクラスで、
他の学生が言いよどんでいるときに、「それは○○ということか」とそれぞれフォローしあったりしている。
当たり前を説明したのは、他の人と交わるのが苦手という学生で、
でも他人のことが全然気にならないのではなく、
他人が自分をどう見ているのか、
線を引いてすごく気にしている。
だから、いろんな人を分析する。
彼にとって、「当たり前」のことを図式化したり論理化したりすることは「当たり前」で、
でも他の人から見たときに、それは過程としてとてもめんどくさく、「当たり前」の一言ですませていることでもある。
人の考え方にもいろいろあり、その人ごとの「当たり前」の考え方やものの見方がある。
それぞれの当たり前を受け入れることこそが多様性のある社会。
そんなことを、改めて気づかせてくれる留学生クラス。