始まりというもの
離島で和食を学ぶ「島食の寺子屋」・受入コーディネーターの恒光です。
島食の寺子屋の2021年度の1年間コースが開講してから、1ヵ月に到達しそうなところで、改めて島食の寺子屋noteを再開します。
1ヵ月というと、1年間コース全体の12分の1。
もうそんなに時間が過ぎてしまったのかと、焦りを感じてしまう。
時間に追われている焦りというよりかは、季節がどんどん進んで置いてきぼりを食らうんじゃないかという焦りといったらいいのか。
1年そのものは毎年のように訪れる一方で、入塾してくる生徒たちにとっては、この1年が最初で最後の1年になることも確かで。つまりは、出会うものの全てが最初で最後だということ。
初めてなのは、僕自身にとっても同じ。
島に住み始めて6年目になるけれども、毎年のように繰り返される「事柄」も、いつだって初めてのものに変わってしまう。つい先日に例年の如く蕨を取りに行ったら、偶然にも同じく蕨を取りにきていた人と出会い、その方のお母さんが蕨を昔からどのように料理にしているのか教えてもらったり。
そして、いつもと違う道を通ったものだから、下に咲いている黄色い花に目が向き、それが蛇苺の花だということも知った。あと、知らない花もあって、帰る頃にはブーケのようになっていた。
島食の寺子屋は、道中で極めて寄り道が多い学校ゆえに、定量性の学びからかけ離れているのかもしれない。もちろん、校舎の中で基礎は基礎として教えられているけれども、それでも食材は自然ありきだから、出会うものは形も質も、いつもぶっつけ本番。
毎日のように初めてのものと向き合いながら学ぶということは、料理を学び始める方にとって、とても難しいと思う。レシピみたいに、形になっている学びは安心しやすい。それをそのまま呑み込めば、それでお終いだから。
それでも、ここでは形にしていく日々を続けていくし、自分の力で形にしてみて、初めて自分らしい小さな結晶が出来上がってくる場所だと思う。
このnoteは、生徒たちが日々のことを丁寧に折り畳んで、1年かけて蓄えていくような場所にしていきたいと思う。生徒たちにとって、単なる感想文ではなく、ひとつのひとつの結晶に変わっていく日になると嬉しい。
(文:受入コーディネーター 恒光)