新小説『どこにも行けない』一部公開 by寺田健吾
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「もう好きじゃないから、ごめんね」というおそらく最後になるであろうLINEを通知で確認するだけで、まだ既読を付けられない。深夜2時。明日も午前中から大学の講義があるというのに、動悸がおさまらなくて眠りにもつけない。このまま家を飛び出したとしてもきっとどこにも行けない。ここら辺は夜中になるとたいした街灯すらなく、どこに行ったらいいかもよく分からないのだ。
大学3年生になったばかりの野原拓斗は、今回の人生で初めての失恋を経験した。ここは栃木県足利市。山の麓にある小さな戸建ての中で大の字になり、天井を眺めた。よく見るとかすかなシワがいくつもあった。ところどころ模様がズレている箇所もあり、拓斗は思わず「あ」と声をこぼした。天井のシワや模様のズレがやけに現実的で、そうか、これは本当に現実なんだな、と改めて気づく。
拓人は3年以上付き合ってきた恋人・涼介を今失った。最愛の人の消失。ふとスマホに目をやると、「もう好きじゃないから、ごめんね」という文章がまた目に入る。なんて悲しい文字列なのだろう、と思った。しばらく既読にせず、その文字列を眺める。眺めてる間、「明日の講義、代返してくれない?」という友人からのLINEが届く。拓斗のため息は誰もいない部屋に小さく響いた。
今思えば、涼介は最近様子がおかしかった。連絡の頻度は減り、でもSNSでの露出は増えていた。この前会った時はあまり目を合わせてくれなかったし、帰り際に「またね」と手を振ったら「うん」とだけ返された。「またね」が返ってこなかったことにわずかな違和感を覚えたのだ、そういえば。あの時、違和感を無視せずにもう少し一緒にいればよかった、という後悔が拓斗の中で渦巻いた。
涼介との出会いはマッチングアプリで、まさかこんな田舎で出会うなんてつゆにも思っていなかった。お互い近くの学校を卒業し、大学こそ違うものの住んでいる場所は比較的近所だった。拓斗は涼介の雑なところが好きで、デートの際はいつも拓斗が涼介の住む場所へと伺った。車では30分ちょっと。出会った頃はふたりで公園に行ったりお祭りに行ったりもしたが、ここ1年は一緒にゲーセンに行ったり行ったり銭湯に行ったりすることが増えた。恋人らしい会話も減っていた。
途中、涼介には浮気相手がいることを拓斗は知った。ある日、銭湯の帰り、車内で助手席に座っていた涼介は窓を開けて夜風を浴びながら、「あのさ、先週なんだけど、浮気しちまった」とポツリと呟いた。拓斗が「え?」と聞き返す前に、「でもね、身体の関係だけ。心はまだ浮気してない」と続けて話した。涼介は「飲むヨーグルト」を勢いよく飲み干した後、窓の外を見ていた。拓斗は「そっか、でも正直に言うことが正義でもないと思うけどね」と前に続く道を見ながら言った。涼介は正直者で、なんでもそのまま言ってしまう傾向にある。言わなくてもいいことも、言うべきじゃないことも。それは相手の為の発言なのか自分の為の発言なのかたまに分からないときがあり、時おりその曖昧さが拓斗を困惑させた。しかしその曖昧なところも、不器用なところも、ちょっぴり雑でクズな一面があるところも、全てを含めて拓斗は涼介のことを好きだった。
拓斗は涼介に浮気をされた腹いせに、一度だけ浮気をし返したことがある。相手は同じく栃木の人で、マッチングアプリで出会った。とりわけタイプでもなかったが、涼介はどんな気持ちで浮気をしたのだろう、ということも知りたかったので、なかば正当化する形で浮気をした。
山の途中にある古びたラブホテルで僕らは横になり、全てが終わった後、浮気相手は煙草に火をつけて「くだらないよね、愛とか恋人とかって」と言い放った。その瞬間の目があまりにも本気だったので拓斗は何も言い返せなかった。
浮気相手にはつい最近まで恋人がいたようだが、どうやら何かがあって別れてしまったらしい。始まりがあれば終わりがある。僕らは終わりに向けて物語を始めるしかないのだろうか?などとボーッと考えていた時、涼介からLINEが届いた。「明後日から急きょ東京に行くことになったから。忘れてなかったらお土産買ってくる」
涼介はいつもお土産は買ってこない。浮気相手から「誰とLINEしてるの?」と聞かれたので、目を合わせずに「友達」と答えた。友達。拓斗と涼介は恋人ではあるが、これは仲の良い友達と何が違うのだろうか、などと考えた。
「ラーメンでも食い行く?」浮気相手のいきなりの発言に拓斗は頷いた。きっともう二度と会うことはないのだろう、と思った。本名も趣味も何も知らない。僕らの関係には愛も想いも何もないんだな、と思うと、この2時間を涼介と過ごすべきだったかなという気持ちが湧いてきた。気づいたら外は雨だった。BGMのような雨音を聴きながら、浮気相手は二本目の煙草に火をつけた。
「もう好きじゃないから、ごめんね」という拓斗からのLINEには既読を付けられないまま翌日を迎えた。午前中の講義には間に合わず、休みの連絡を取ることもできなかった。無気力。天井のシワと模様のズレを眺めたり、スマホのホーム画面を見たり、それを交互に繰り返すだけだった。現実と夢の狭間にいると思ったが、いやでもこれは紛れもなく現実だと思うと胸がじんと痛んだ。会いたかった。今すぐに涼介に会いたかったが、おそらくもう会えないし彼の心も戻ってこないと思うと何もする気が起きなかった。洗濯予定の服が無造作に散らばっている。食べかけのカップラーメンと缶チューハイが小さなテーブルの上に置かれている。
好きな人の消失。恋人の不在。お願い、別れたくないと懇願したところで涼介は戻ってこないことを拓斗は知っていた。涼介はきっと、ただの浮気ではなく、他の誰かを本気で好きになっていたのだ。そうなってしまったらもう打つ手はない。好きな人を自分のものだけにしたければ世界の内側に閉じ込めておくしか方法はないのだ。拓斗はそれができなかった。世界の外側に放たれてしまった涼介はもう内側に戻ってこれないのだと思った。
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