現在形と過去形
現在形と過去形、実は非常に曖昧だと思う。
例えば高校生時代、骨が溶けるほど好きだった同姓の先輩がいた。彼のことを想うといつも胸が張り裂けそうで、校舎内、階段ですれ違うだけでドキンと心臓の脈が一瞬だけおかしくなった。
部活が終わり、チャリで並んで帰っていた時、彼の横顔を頻繁に確認した。なかなか目が合うことはなく、彼はいつも遠くを見ていた。真っ直ぐな眼差しで。
大好きだった。心から好きで好きで仕方なかった。相手が同姓だから、好きですとは最後まで言えなかった。言えないまま先輩は高校を卒業し、就職し、気づいたら結婚までしていた。久々に届いたメールには結婚のこととお相手との写真が添付されていた。
その時に僕は、嫉妬をするわけでもなく、悲しむわけでもなく、心から応援するわけでもなく、あぁ、大好きだったなという気持ちが溢れてきた。いつに間にか過去形になっていた自分に気づき、妙な違和感さえ覚えた。
僕は僕で他に好きな人ができたり、今度は自分の気持ちをちゃんと伝えることができる相手に出会ったりもして、とにかく時が経った。先輩への「好き」は「好きだった」にグラデーションのように変わった。今でもそう思う。僕は彼のことが好きだった。
同じ感じで過去に好きだった人、付き合ってきた人の顔を思い浮かべると、「好きだったな」と思える人もいれば、「好きだったな、と過去形にしてるだけで、実際はまだ現在形じゃないか」と思う人もいる。
「好き」なのか「好きだった」のか分からず、曖昧な境界線の上にいる感覚。その日の調子や気分でどちら側にも転んでしまいそうな、そんな状態かもしれない。
そう思うと、あれほど好きだった先輩のことを過去形にできたのは一体なぜだろう。なぜ1つ、物語が終わったのだろう。
川端康成が作中の中でこんな言葉を残している。
「なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人のほうが、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れたあとってそうらしいわ」
−なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人のほうが、いつまでもなつかしいのね−
先輩に対して最後の瞬間まで好きとは言えなかった。でも気づいたら過去形に昇華していた。いやでも、これすらも本当は現在形のままで、「好き」なのかもしれない。今もし会えたら「あの時は本当に好きでした」なのか、「あの時は本当に好きでした。今でも好きです。ずっと偉大です」なのか。後者の現在形の「好き」には恋愛感情はもう含まれていないのだろうか。