北の果ての鉱山開発5(架空索道)
昭和18年当時、鉱山らしいのは峠を越えたパンケの沢で、大多数の者が パンケにいた訳である。私もその大多数の一人であった。
高低差200メートルの峠一里の道は、深い雪に埋もれていた。
樹海を伐り開いて、そこに架空索道が設けられていた。ポストと呼ばれる木製の櫓(ヤグラ)が行儀よく並んでいたし、櫓の動輪に支えられた鋼索(ワイヤーロープ)には、ほぼ等間隔に搬器(ハンキ)と呼ぶバケットがぶら下がっていた。
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索道は、その鋼索をペンケとパンケの両基地を軸として、電動で廻る仕組みであったが、パンケからくる搬器には鉱石が、そしてパンケに向かう搬器には、鉱山で使う資材類が積み込まれていた。
索道で運ばれてきた鉱石は、ペンケの基地から、下川の土場(どば)まで、馬橇で運び出されていた。
この索道は、手稲鉱山の初期、手稲山の麓に有った採鉱現場から駅までの輸送に使われた物であるが、下川の開発で、二度目の奉公となった訳である。
また、この索道は荷物専用で、人間が乗ることが禁止されていた。
人の重さに耐えぬ事はないが、搬器のクリップが鋼線を噛んでいるだけで、安全装置と言えるものが無かったからである。
事実、搬器が鋼線から逸脱することは珍しくなかった。
と言う訳で、大概の人達は、空を行く搬器を残念そうに見上げながら、峠道を歩く事になる。
全く運のよい事に、私は、パンケに行く人と一緒になれて、索道基地のスキーを借り、二人で新雪に立ち向かった。
荷物は索道に預けたので、確かに身軽にはなったが、長靴はスキーに、しっかりと固定しない。子供の時から馴染んだスキーではあるが、勝手な方向を向くので、難儀な山登りとなった。
また、この峠は困ったもので、最初に頂上と見えた所は、ちょっとした出っ張りで、そこまで行くと本当の頂上が、ずっと高い位置にあるという、人の心をもてあそぶ代物であった。
ようやく峠を越えて、パンケ側の斜面を滑り降りると、空気を圧縮し、削岩機を駆動するコンプレッサーという機械の音が聞こえてきた。
こちら側の索道基地にスキーを返し、同行者とも別れ、一人になったが、すぐに目についた木造製の選鉱場は、月間6万トン処理の手稲鉱山とは比べ物にならないほど小さかった。
顔を合わせた人達は、別にこちらに興味を示す表情も無く、こちらの「よおす」という簡単な挨拶に、形ばかり応えて、それまでの仕事を続けるのであった。
教えられたように事務所を探したが見つからない。
いくつかの小屋が雪に埋もれていて、ようやく道路から下の入口に「鉱山事務所」の看板を見つけたような気がする。黒い詰襟の老人が、入口付近にいたから分かったのか、今は定かでない。
よく見ると、その人は鉱山主任であった。
本山の手稲に来た時は、いつもモダンな背広姿であったから、とっさに気が付かなかったのである。「どうもすいません・・・」と謝りながら着任の挨拶をした。
事務所の中は板張りで、3~4坪の広さ。ストーブを中心に長い板を机がわりに設けてある。踏み台のような木製の椅子であった。
主任だけは机があり、あとは共用と言う事であった。
明かり取りの窓から、白っぽい空が見えていた。坑木の切れ端を燃やすストーブは狭い部屋を暖めていた。
ここには、事務職と技術の係員が詰めているのだが、この時は鉱山主任の他は軍隊帰りの階級章の無い将校服を着た経理の人と、若い女子の事務員がいただけであった。
経理屋さんは二ヤリと笑って、私を迎えてくれた。
彼は召集解除で帰ってきて、すぐに結婚し幾日も経ずして、この地に赴任したのである。勿論単身赴任であったが、暖かそうな雰囲気を持った人がいて
私は少し安心した。
少し遅れたが、ここで、地名について説明しておきたい。
今まで、パンケとか、パンケの沢と書いてきたが、パンケと言うのは広域名称で、正式には落合沢と言う。
鉱山の人達は、許山(もとやま)と言うのが普通であったし、時にはパンケとだけ言ったりでだったが、それも大体は許山を意味していた。