見出し画像

北の果ての鉱山開発(終戦直後3)

目次

  1. 選鉱場の全焼

  2. 選鉱夫は坑内に

  3. 男の序列

  4. たくましい鉱山長

選鉱場の全焼

 昭和20年の初雪が降り出した頃、ペンケの選鉱場が全焼した。

 その前年、パンケの小さな選鉱場が倒壊していたから、鉱山には選鉱場が無くなってしまったのである。 

 その日は、青空がきれいな日であった。12時を少し過ぎた時間であったが、「選鉱場が火事だ」と、事務所に飛び込んできた人があった。
 出てみると、傾斜面に立つ選鉱場の右の一番上に白煙と、糸状の赤い炎が目に入った。

 建物自体が大きいので、ぼや程度に感じ、この時は、大きな火事には見えなかった。

 吾々は、搬送用の消化ポンプを持て、インクライン(巻き上げ装置)の階段を走るように登ったが、現場に着いた時、上部建屋は完全に火の海であった。
 「コンベアーの廊下をこわせ」と叫ぶ声が聞こえた。どこから持ちだしたのか斧や鉄棒で、上部建屋本棟をつなぐ人間のクビ状の連絡廊下を壊しにかかったが、猛烈な火勢は人を押しのけるのであった。

 火は上から下へは、なかなか燃え難いのではないかと思っていたが、今回は、全く通用しなかった。

 建物が大きいだけに、仮に水が有っても搬送ポンプの圧力では、役に立たなかったと思うが、水は無かった。

 人々は、消化をあきらめて、機材の搬出に掛かった。戦争中に方々の鉱山から転用された機材を寄せ集めて作った選鉱場であっただけに、これを運転する者も、修理する者も、苦労をした代物だっただけに、愛着も強かった。

 モーターをはじめ、取り外しのできるものを外す者、それを搬出する者と自然に手分けできたが、火は容赦なく押し寄せる。
 そのうち階段を、それらの機材が転げ落ちてくる。まことに危険な状態であるが、何とか助けたいという一念が、無理を重ねたが、それも出来なくなってしまう。

 浮選場まで来た火が、ついに浮選薬剤のドラム缶を焼き出した。

 ドラム缶は蓋を噴き上げ火柱が立つと共に、大きな黒煙が空を包むようにして、人を圧迫した。ドン、ドンと破裂爆音も伴った。

 その連続に、後ろも見ずに、逃げ出したのであった。後で誰かが、原爆のようにと言ったが、それは実感として間違いなかった。

 木造の大選鉱場は、完全に焼け落ちた。

 半狂乱になった課長を、課員たちが必死に押さえていた。手を離せば、火に入って行ったかも知れなかった。

 戦い疲れて、呆然と事務所前の広場に立った人の前で、久保田組合長は涙をぬぐいながら、大声で話し出した。
 「選鉱場は焼けた、だが坑内には無尽蔵の鉱石がある。この鉱石を無駄にしてはいけない。再建は困難を伴うであろうが、みんなが力を合わせて、この鉱山を守り抜いて行こう」と呼び掛けた。

 その時、泣いている者も涙を拭いた手を差し上げて「がんばろう」と声を合わせた。
 晴れた空に、その声は響いた。

選鉱夫は坑内へ

 鉱石が焼けると、長い時間にわたって赤熱していて、少しくらいの放水では色が冷めない。この鉱山の鉱石は、含有硫化鉄鉱と言って硫黄を多く含んでいたから、その硫黄が燃えて、青白い炎を しつこく 出しているのであった。悪魔の火のように。

 その炎が人々の悲しみをよそに、一晩中選鉱場の斜面を明るく照らしていたのである。

 何日かして、焼跡の大まかな片付けが済むと、選鉱場で働いていた人は、ちりじりになった。職場転換なのである。大多数の人は峠を越えて坑内の作業につくことになった。収入が少なくても、太陽の下で働けると言うことで、選鉱場で働いていた人にとって、坑内の仕事は賃金が上がっても、正直なところ恐ろしかった。

 だが、そうしたわがままは、鉱山では通用しないことを知っていたし、戦後の厳しい世相の中で、鉱山を離れて行く自信も無かった。
 そうした事で、選鉱場の再建を夢見ながら、坑内作業に二年以上も就いて行くのであった。

 中には、鉱山を去って、生活物資のヤミ商売で派手な暮らしをした者も、
いるにはいたが、長続きはしなかった。いつしか、話は途切れ家族はちりじりになったと云うような噂が、鉱山に届いてきた事もあった。

 残るも地獄、去るも地獄と言う言葉が、それから十年後に炭鉱労働者の間に言われたと聞くが、下川鉱山では火災が原因だとしても、いち早く選鉱夫の身に押し寄せていたのだ。

 彼らが、坑内でできる仕事は、運搬作業で鉱石や、資材を運ぶ作業に限られる。勿論のこと重労働である。
 鉱石は鉄を含み重たいし、切羽で鉱車に積み込む作業は、体力の有る者にとっても、容易ではない。更に就業後、社宅までは一里の峠越えの帰路につくのであるから、パンケの坑内夫は「ご苦労さん、頑張れよ」と励ました。

 幸いにして、大きな怪我もなく新しい選鉱場に帰って行った時、専任の坑内夫は、ホットしたのであった。二年間の月日が経っていた。

 ここで、少し話して置きたいのは、当時の会社の状況である。
 敗戦後、マッカーサーの指令で財閥解体が行われ、更に企業の分割があった。
 三菱鉱業が炭鉱と鉱山に二分される事になるのだが、その当時は、それぞれ独立して生きて行くことが求められた。それは直接的には、資金面に反映していたから、鉱山部門は不利であった。その中での下川の選鉱場の再建はヒヤヒヤものであった。多くの人は知る由も無かったが。

男の序列

 堅い話になってしまった。大体が鉱山の事で、甘い話なんて余り無いのだが、村に行けば面白い話が無い事もなかった。

 御料と言ったが、当時の帝室林野局の山林から出てくる材木をもとに、製材、合板の工場があったのと、稲作と馬鈴薯を主体にした農業が、この村の主な産業であった。
 三井が経営していたサンル金山は、既に休山していたので、大企業の営む事業は、開発して間もない下川鉱山しかない。
 そうした村だったのであるが、この村の生い立ちに大きな働きをしたのは「岐阜団体」と言う集団移住民であり、その二世、三世が根を下ろしていた。

 この人達の生活の中に「夜ばい」の風習が残っていたらしい。知らぬ同士ではムリであろうが、若い男達には少しくらいの道のりは、何でもない。
 気に入った娘さんがいれば夜になってから、その娘さんの家に忍び込むのである。間違って母親のところに行った男が「娘はあっちだ」とササヤカれたという笑い話もあった。

 翌日、赤飯が出ればメデタシ、メデタシである。そして結ばれて行くのだが、何の楽しみも無いこの土地で、そうした話を聞けば、誰でも信じたくなったものである。

 さて、この村の娘さんのアコガレの順番は、一番が御料の役人、少し間があって、小学校の先生、村役場の役人、それから大部間があって鉱山の人間の嫁さんと言うのが、当時の話であった。

 「御料の役人の家が焼けたら、翌日には前より立派な家が出来た」と言うくらい木材の力は大きかった。担当区といって山林の一区画を担当する役人のサジ加減で、伐採業者のモウケが左右されたといわれる。

 その役人は若くとも判任官、大学を出ていれば、高等官だったから、どちらにしても職業軍人と、そっくりの礼服を着て、結婚式に臨むことになる。
 腰には短刀のような物を釣っていた。

 同じ給料取りでも、随分と違う存在であったのは、致し方の無い事であった。
 鉱山の若者達を見る村方の目は、はじめの頃は特に厳しかった。サンル金山が撤退したことが有って、流れ者とみるのは致し方無い事であったが、今度来た銅山の者は、どんな奴等かといった、探るような目つきをハバからなかった。

 月日がたち、村人の中に三菱が経営する事や、若者達に対する評価が生まれてきたこともあって、当初の頃のような淋しさを味わうのも少なくなったが、それでも、やっと村役場の役人のレベルに追い付いた位であった。

 そうしている間に戦争が終って、ドット男達が帰ってくると、人々の考え方が変わって行く。

 村には、帰ってきた男達を吸収するだけの農地が有った訳ではないから、鉱山に働き口を見つける者が出てくる。

 娘の親も、自分の暮らしの体験から月給取りの嫁に出したいと、思うようになって行くのであった。地元から鉱山に勤めている者を介して娘の売り込みが始まった。

 食料事情を背景として、うちの娘を貰ってくれれば「一生食べ物には不自由させない」と米の飯を切り札として迫ってくる。
 確かに嫁入り道具、それには物々交換で手に入れたものが多かったと思うのだが、その道具に混じって、米俵が積み込まれていた。

 鉱山へ嫁さんがやってくる。見せるだけではなくて、澱粉団子を食っている独身の寮生を招いて、白米飯を振舞う。
 これが無上のご馳走であった。鱈腹、ご馳走になりながら、こんな馬鹿な話が、いつまでも続いてよいはずはないと、心の中で思ったのである。

たくましい鉱山長

 この鉱山で、鉱山長と呼ばれた人は三代目までで、その後は、鉱山の規模が大きくなった事で所長となった。

 開発の初期、鉱山師としては北海道で有名な 今堀さん から鉱山を引き継ぎ、今堀さんの配下を使って探鉱を進めた人は、鉱山主任と呼ばれていた。鉱山主任は、三菱から唯一人この山奥に入って苦労を重ねてきたのであるが、昭和19年の早春になり、鉱山長が赴任してきた。

 まだ若いという事か、その日から鉱山主任は採鉱課長と役名が変わった。

 毎朝の朝礼で従業員の一斉敬礼を受けていた、その人は、今度は鉱山長に敬礼の号令を掛ける立場に変わった。

 こうした事は、会社という集団組織では、仕方のない事なのかも知れないが、あの人の方が、吾々の何倍も苦労してきたのだから、自分達も我がままを言ってはいけない、と進めてきた周囲の連中には、溜まらない変化だったのであった。

 それから何年か経ってから、三代目の鉱山長が赴任してきたが、何日もしないうちに、別に鉱業所長が発令されて、鉱山長が次長になるという人事があった。

 結局のところ、鉱山の成長の早さが招いた混乱という事であろう。

 ここで書きたいのは、そんなセンチメンタルな話ではなくて、三代目の鉱山長の事である。

 南支海南島で、もまれて復員したこの人は名前の通り勇ましく、たくましい人であった。その経歴から、沢山のエピソードが有るが、先ず、その一つ
 坑内で働く者の大多数が、毎日、一里(4キロ)の峠を越える通勤者であった。冬は吹雪の日も多く、雪ダルマのようになって出勤し、また同じような姿で帰宅する。通勤だけで仕事の時間が無いという日もあった。
 夏になると熊の心配もあった。

 峠にトンネルを抜けば、人々の苦労は減るし能率も上がる。それに費用の大きい索道だって廃止できる。
 誰でも考える事で、初代の鉱山長も手を付けたが、ほとんど実行はしなかった。金がかかり過ぎるからであった。

 三代目のこの人は、峠の両側から掘り進める事とした。2,000mを越えるトンネル工事となれば、本社の認可が必要であったが、選鉱場を焼失した鉱山に許可が降りるはずがない事を見越し、無断着工に踏み切った。

 この人の長所は遠大な理想を描く事にあるのだが、人々の通勤が楽になるほかに、鉱石の運搬のコストを下げることが出来るので、ペンケ側の入口が鉱場の真向かえに口を開けている。隠しようの無い場所であったのだ。

 密告でもあったのか、本社からの査察が行われた。

 彼は査察者に対して、平然と「あれは探鉱坑道だ」と言った。
 探鉱坑道は鉱石の位置を調査するもので、小さな坑道である。大賀背と呼ばれる、普通坑道は何割か大きい。誰が探鉱坑道と思うか。

 この時は工事は中止させられた。

 何としても自分の考えを、やり抜こうとする情熱は比類が無かったのだが、彼が去って数年後には、この坑道は工事が再開され、鉱山の大動脈となったのである。

 その二、焼失した選鉱場はまだ再建されていなかった。いくら優れた鉱石が有るとは言え、選鉱場の無い鉱山は片輪である。無駄な部分の運賃がかさみ、それが原因で採算は苦しい。

 だから、鉱山全体の無駄を省くだけでなく、更に厳しい節約を行わなければならなかった。それは隅の隅まで浸透していた。
 冬の長い鉱山では、暖房の燃料も馬鹿にならない。その燃料に製材所から出る皮板を使うという事になって、昼休みを利用して皆で運ぶこととした。
 材料運搬用トロッコを使い、事務所横の広場に積み上げていた。

 こうした日が何日か続いたある日の事、鉱山長室の窓が開いて「だらだらと運ぶな、駆け足だ」との声があった。トロッコを押している人は、とっさには何の事か分からなかった。
 それでなくても食料の不自由な時代、休憩時間を削って事務所の燃料を用意する。事務員には不慣れな作業であったから、自分達に向けられた声とは思わなかった。
 しかし、鉱山長は、また同じく叱るような口調で繰り返した。それを聞いた皆は作業を放棄した。

 ただ、それだけの話であるが、鉱山長は気の抜けた働き方をすれば、怪我するかもしれない、安全のために気合いを掛けなければと思ったとも考えられるが、その説明は無かった。実際に戦場を経験した人の見方だったのか。

 自分達が寒くないように燃料を運ぶのは当たり前の事で、そんなことで怪我をしてはいけない。そうした考えであっても、鉱山長不信の声を増幅させただけであった。
 その三
 その頃、下川にも支山があった。オホーツク海に近い、歴史は古いが、規模の小さな金山であった。
 駅から20キロ近く山に入いったところで、その道筋は畑作ばかりの農家が続いている。その駅との間の運搬のために、自家用トラックを導入した。

 そのトラックが沿道の農家から荷物を頼まれ、見返りで一部の人が甘い汁を吸っているという噂が立った。

 鉱山長はすぐに出掛けて噂を確かめたらしい。帰ってくると一番末席の私が呼ばれた。鉱山長室のガラス戸を開け中に入ると、オジギをした頭を上げきらぬうちに、声が飛んできたのである。「大体怪しからん、会社のものを使って社外から金を稼ぐ。金を受け取っても、それは社納すべきものだ。それをしないで懐に入れるのは泥棒に等しい」。話している相手の区別なく。自分の胸の内の怒りをブチマケルという くせ は以前からあったが、一時間も聞いていると、何が問題なのか分かってきた。次席は休暇で、課長は素通しでの話だった。

 「分かったか、そういう事で君に転勤してもらう。なるべく早く行って交代しろ」と結論が下りまで、実に長い時間が過ぎていた。

 札幌に近い手稲から、山奥の下川に、そしてまた格落ちの支山へ、淋しかったが、ハイと言って部屋を出た。とにかく鉱山長が怖く、逃げたかったのである。
 その日の退勤後、次席の社宅を訪ね、事の経過を話した。

 翌朝、鉱山長室に入った次席が、カミ付いているのがガラス戸越に見えた。詳しい内容は聞けなかったが、職制を全く無視した点を突かれて、さすがの鉱山長も帽子を脱いだという事らしく、私の転勤は立ち消えとなった。

 正論には承服するという良さを示してはいたが、それでも、歯をキリキリさせている音が聞こえてきそうであった。


 

北の果ての鉱山開発(終戦直後4)に続く



いいなと思ったら応援しよう!