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槙峰鉱山の変遷(封建社会から民主化へ)

 大相撲の友綱が延岡藩主内藤家から鉱区を貰ったが、鉱山の開発は、三菱の手に移ってから行われた。
 その頃、岡山や生野から鉱山経験の深い者たちが選ばれて、この地にきた。

 そのような上級管理職は役宅と呼ばれる住宅にあって、一般の者達とはかけ離れた階層を形作っていた。いわば上流社会があり、使用人を置くのが普通だったようだ。役宅には、二畳ほどのお手伝いさん部屋があった。

 中間の管理監督者として、稼ぎ人から取り立てられた「検断」とか「号令」と呼ばれる人達がいて、作業指示をしていたと言う。
 検断の方が少し上位だったという話もあるが、いずれにしても昭和の初期に亡びてしまった職制のようである。

 昭和10年頃まで飯場制度が有って、鉱夫達はいくつかの飯場に所属し飯場頭の支配を受け、鉱山に労務を提供する。

 鉱山は、こうした人達のほか、地元からの稼ぎ人を合わせ、坑内、外の仕事を進めていた。
 助手、職頭と言う監督者が作られたのは、その頃から事のようである。

 その人達の更に上位にあった職員は、事務所の給仕で入った若者の中から、能力を買われて登用された者もいたが、職員の主体は、同じ会社の他鉱山から転任して来る者や、学校を出て、職員として採用された者が主体となっていた。

 そうしたことで、この鉱山の稼ぎ人から職員になるという道は、極めて難しいものであったから、立身出世に例えられていた。
 こうした鉱山の姿は、自然に身分制の濃いものとなって行った。

 昭和27年頃でも鉱山の年配者は職員の事を、役人さんと呼んでいた。
 また、協和会館といって映画を上映したり、その他の催しものを開く場所があったが二階席は職員とその家族の席と言った、不文律めいたものがあった。労務職の鉱員の若者が二階席にいると、階下から非難めいた視線が注がれる状態であった。

協和会館

 鉱山住宅は綱の瀬川と言う、五ヶ瀬川の支流の両岸から両斜面にわたって数か所の集落を形作っていたが、そこに散在する職員社宅は鉱員社宅とは広さも、作りも異なっている。  

田中春雄氏 スケッチ


田中春雄氏 スケッチ



 「緑台」と言う、鉱山で一番大きな集落に住む、最有力者はこの地で生まれ育ち、採用され坑内の技師まで出世した職員であったが、能力があり町会議員、消防団長等の肩書も持っていた。

 この人の意見で緑台の住人は動いた。
 多くの取り巻きも従えていたので、この人を度外視しては何事も進まない位の力を持っていた。しかし、長い月日を送るうちに、こうした権力者は次第に飽きられてくる。
 民主化の現れとして、それまでだまって従っていた人達に自我の芽がふく。

 当時、自分が体験した中で、次のような事があった。
 生活用品を供給販売する購買会では、酒類も扱っていた。そこでは、仕事帰りの鉱員さん達が立ち寄ってコップ酒を引っ掛ける。
 事務所の若い連中を引き連れて、酒好きの私も、そうした仲間に加わった。
 物珍しそうに振り向く人もいたが、別に気にも止めなかったのだが、翌日「職員さんがあんなマネをしないで下さい」と年配者の土地の人に注意された。要するに、人々の手本となるべき者が、酒の立ち飲みは困ると言うのだ。私はそれを無視した。

 また映画の日、協和会館で鉱員の若者たちを連れ、二階席に入った。理由のない不文律を、わざと破るのが目的であった。これに対しては特に、批判等の指摘は無かった。あってはならない不文律であり、これ以降当然のように消えて行った。

 そうしているうちに、鉱山の運動会が開かれる時期となった。
 各人が居住している部落の対抗で、種目を争う運動会であったので、部落別に役員を選出し、選手団を作る必要があった。

 この年、優勝すれば三連勝となって優勝旗を貰えるから「緑台部落」は赤熱した。
 前回、前々回は前に書いた、最有力者が団長を務めていた。
 しかし、今回は大もめにもめた。若手を中心とした人達は、その長老を推さなかった。
 選手の中心は若手であるので、その意見は強く、結局団長役は私に回ってきた。決して楽しい役目では無かったが、私は引き受けた。

 この古い鉱山の体質を改め、将来を担う若者達に民主的な歩みをさせる事が、必要だと思ったからであった。
 長老と取り巻きの連中は、新来の職員に何が出来るかと言った表情で手を引いた。
 その日集まった青年達で役員を決め、種目別の選手団と、その責任者も決めて皆に計った。殆どの人が応じてくれた。

 部落内の広場で、連日のように練習がはじまったが、終ると責任者達は私の家に集まり練習の成果を語り合い、その後は酒を酌み交わした。
 やがて運動会の日がやってきた。午前中、競技の得点は振るわなかった。

 昼食の休憩時間、酒を呑んだ長老と取り巻きが吾々の所に来て、成績が悪いのは団長の責任だと言う。悔しかったが、黙って耐え忍んだ。
 彼等にすれば、このまま負ける事が自分達の威信の回復に繋がると思っていたのではなかろうか?

 だが、午後に入って、奇跡的な経過を辿って優勝した。
 三連勝であった。

 優勝旗を担いで部落に帰り、集会所で盛大な祝宴が開かれた。
部落の大部分の人が集まったが、長老とその一派は姿を現わさなかった。

 それから少しして消防団の役員会改選があった。団長は長老ではなく、他の人が選ばれた。
 これは緑台のほんの一例であるが、鉱山全体の雰囲気も、何かの力に引かれるように民主的に変わって行くのであった。

投稿者より

槙峰につきましては、槙峰の記録 と言うブログが有ります。
makimineさんが2009年から続けて下っている、素晴らしいブログです。
ご興味のある方は、そちらもご覧ください!
http://makimine.livedoor.blog/

 

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