北の果ての鉱山開発(熊狩り)
昭和18年の晩秋の頃、ちょっとした騒ぎが起きた。
その朝、手稲から転勤してきて間もない坑内夫の一人が行方不明になった。
飯場の目と鼻の先の事務所に顔を出して、その日の作業指示を受けるのが決まりであったのに、顔を出さない。
飯場にもいない、という事であった。彼は、朝起きると近所に熊の足跡が有ると聞いて、密かに銃を持ちだし、熊を追ったのである。
それが分かったのは、だいぶ時間が経ってから、飯場の炊事婦がその事を告げたからであった。
鉱山主任以下、事務所では彼の腕前を知らなかっただけに、これはとんでもない事になるのではないかと心配した。
雪に残った熊の足跡を彼は追い、その後を捜索隊が追う。こういう時熊は
自分の足跡を隠すため、往々川に入るものだという。この日もそうであった
そうした事で、捜索隊は難儀するに加えて、秋の日暮れは早く、その日はあきらめて引き揚げてきた。
翌朝、彼は帰ってきた。親子三頭の熊の穴を見届けてから、野宿をし、腹が空いて帰ってきたが、是非獲りたいという。
鉱山主任は、鉱山の近くを歩き廻る熊の存在は困るが、さりとて、命がけの熊狩りの事、彼の腕前を信用してよいのか迷った。
一旦穴に入った熊は、大体が翌春まで出ないものだと聞いて、鉱山主任はペンケ中継所に勤務している熊狩りの経験者を呼び寄せる事にした。
その応援は、自尊心の強い彼のプライドを若干傷つけたようだが、鉱山主任は頑として、応援を条件とした。 彼は折れた。
物好きな素人も数人が加わった一行は、意気揚々として出発し、彼の目印通り進んだ。
穴の入り口をふさぐ杭を何本か用意して現場に到着すると、杭打ちを始めたが、熊は出てこない。
こうした時に、物を入れてやると熊は自分の背後に押し込み、自分は次第に入口に出てくるという、笑い話めいたものが有るが、この時は棒を差し込んで熊を怒らせたらしい。
熊は入口の杭に噛み付き、頭を振ると杭はみるみる細くなる。素人達は恐怖に声を上げたという。
その頭を銃弾が貫いた。300キロ以上もある大きなメス熊をロープで穴から引き出した。その後二頭の子熊も射殺した。
一行は、獲物を解体して背負い、意気揚々と鉱山に帰ってきたが、朝出掛ける時と比べみんなの顔が、随分と緩んでいたと伝えられている。
この熊狩りは、話題に乏しい鉱山内で、枝葉が付いて語られていたし、肉はしばらくの間、食卓をにぎわし、血を乾した粉は栄養剤として活用されるなど、話ばかりではなく鉱山の人達を喜ばせた。
だが、そうした話が手稲鉱山に伝わると、鉱山の幹部は、それを苦々しく受け止めた。
無断で仕事を放棄して、勝手な行動を取った者に対し、下川の管理者たちが無関心に過ぎるというのが、理由のようである。
同じ北海道でも、手稲に済む人達には、熊は全くと言ってよいほど関係の無い存在であるが、天塩国の奥では身近な危険なのである。
何かの用事で、一人歩きしなければならない人達には、熊は恐怖なのであるが、それを理解して貰えぬ事に対し、現地では不満であった。
それだけではなく、手稲鉱山に対し離反する気持ちを抱く人達が増えて行くのである。
田舎に送られた第一線が持つ、ヒガミだったのだろうか。