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北の果ての鉱山開発7

 事務所の裏に、飯場と言われる建物があった。やはり、木造のバラックではあったが、建屋としては鉱山でも大きい部類に属しており、用途は労務員の宿舎であった。

 次第に人数が増えてきて、やむを得ず部屋毎に棚を作って、棚の上で寝起きする人達も出てきていた。どこへも遊びに行く場所が無い人たちは、少しばかりの自分の領域を作って、ドブに酔い花札に興じた。
 酔って棚の上から放尿し、被害者に殴られる者も出る始末であった。

 この宿舎の主体は、手稲鉱山からの転勤者であったが、その他に、この鉱山の草分けから働いてきた人達や、開発の途中で地元から採用された人達もいたので、寄せ集めともいえたし、銘銘まちまちな空気で、新開地そのものであった。

 いつ兵隊にとられるか分からぬ不安な気持ちながら、家族との別居を強いられている集団は酒を含むと、荒っぽくなる素地を充分に持っていた。
 だが、面白い事に気付いたのだが、北海道の人間には、狭い意味での郷土意識がない。手稲出身者であっても、ただ、それだけの事で団結することは無かった。
 手稲以前の個々の道が、厳としてあるのだった。
それが、集団による闘争を防いでいたとみる事が出来そうである。

 元々が、地縁と言うものに拘りの少ない人たちが、自分なりに生きて行こうとすれば自分自身の好みで仲間を選ぶことになるし、その人がどこの出身かと言う事には、たいして意味が無くなってしまう。

 他人事には出来るだけ立ち入らない生活の知恵を身に着けていたと言える。そうした事が、悪い条件の重なる山奥の生活を、何とか支えていたとも考えられた。

 鉱山社会が、一番怖いのは血縁集団が力のあるリーダーに率いられる時である。
 ここから数年後に、その実例見るのであるが、戦争中なのに、この頃はまず平穏だったのである。

 原生林の中での生活であるから、空気もそして水も、この上なく綺麗であった。水は事務所から2~300メートル落合沢を上った一つの支流をせき止め、そこから導水していた。水道と言っても、川水をそのまま飲むだけの事だし蛇口などは無く、流し放しであった。

 冬の間、凍結させないためには、これが一番の対策で、一度も断水が無かった。

 さて、前にも書いたが、寒冷地ではトイレの問題は、思わぬほど重要な事である。百人くらいの人間が、狭い所で暮らしているのだから、どうしてもトイレの集中度は大きくなる。
 それゆえ、尚更の事重要な問題となるのだ。

それは致し方ない事で、厳寒になると落下物は、すぐに凍る。
自然に円錐状の氷柱となってしまう。

 やがて、反対方向でも向かない限り用を足せなくなるのだが、これとても、目の前に色の付いた柱があれば、どうしても気になる。
従って、時々、これを倒す事が必要となってくるのだ。

便柱倒しイメージ



 太陽の当たらぬ坑内で働く人達から、高い坑内の賃金を補償されても、やりたくないのは、この仕事だと、常々言われたものである。

 だが、何が、どこで、プラスになるか分からないもので、兵隊時代に役に立った。旭川の連隊に入った冬、厠掃除(便所掃除のこと)の順番が回ってきた。北海道も南部に属する、函館連隊区出身の戦友たちは、全く生まれて始めての事であったろう。

 鉱山での経験を思い出して、始末の仕方を教えてやった。
 そんな事で、他の班の兵隊にまで顔が売れるとは全く思ってもいなかった事を思い出す。

 ごく上すべりに事務所裏の飯場の事を書いたが、この飯場で唯一働いていないヤツがいた。パンケと呼ばれていた白犬である。
 アイヌ犬でアイヌ人が狩猟に使う種類らしかったが、誰が連れてきたのか分からぬまま、飯場に住み付いてしまった。

 人に甘えるでもなく、それでいて反抗するでもなく、全く当たりさわりのない犬であった。居座っていたということは、誰かが残飯でも与えていたのであろう。

 パンケは人とは全く関係のないような、孤高な顔つきをして、飯場のどこかに自分の場を占めていた。

 戦争の時代、そして家族と離れた生活に、人間たちが不安の日々を送る中で、モッソリと生きる白犬パンケは、一番の幸せ者であったのかもしれない。
 そのパンケはどうなったか、考えても記憶が浮かび上がってこない。

続く



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