北の果ての鉱山開発6(簡易電話とドブ)
鉱山主任はペンケ中継所からの電話連絡で、私が峠を上った事を知っていたが、気になって表に出てみようとしたところであったと、話してくれた。
ここで、鉱山で使っていた電話機の話をするが、絶縁のための碍子(ガイシ)のついた碁盤のような台に乗って通話する。こんな方法は当時でも珍しい経験であった。
電話線が、高圧送電線に併設されており、万が一の感電防止のために行われていた代物であった。
交換台が有った訳ではないので、予め信号を決めて手回しハンドルの回し加減で相手を呼び出す。
確か、下川駅裏の出張所、ペンケ中継所・変電所、パンケ事務所(許山とも呼ばれていた)を結んでいたので、信号音は、いつもにぎやかに鳴っていた。
通話の有無を確かめてから信号を送る事が必要であったが、それを怠って他者の通話中にハンドルを回すと、通話者の耳に衝撃音が入る。
その都度、怒声音が飛ぶことになった。
電話機の付いた柱の奥に、一段高い床になった部屋が有り、そこは直前まで事務所の人達の宿舎で、10坪を超える広さであった。
その部屋の横には炊事場の面影が残っており、大きな木の樽が置かれてた。
ドブ(どぶろく)と呼ばれる、米を蒸して作る密造酒があった。
税金の高い清酒に手の出ない農民たちが、役所の目を逃れて愛飲したものであるが、鉱山にも普及していた訳で、その製造用発酵タンクが残っていたのであった。
お茶の葉も、それほど自由に手に入らない奥地では、お茶代わりに一杯というのも、止むを得ない事だったのかもしれない。
鉱山に入ってくる配給酒は、次第に合成酒が多くなっていた。頭が痛くなるとか、何とか言って随分と悪評が立てられていたから、自分の手で米から作られるドブの方が安心だと、歓迎されていた節がある。
来客にも出されたが、極端な例では時折訪れる市街からの駐在巡査にまで、差し出したという話があるように、罪悪感は薄かったようである。
事務所の片隅にドブの大桶が常備されていたといっても、いつも飲んでいた訳では無さそうであった。私が着任した後でも、昼の間は事務員も現場に出て労働することが多かった。
索道が動き出すまでの間に、野積みされた鉱石をスコップで索道のバケットに積み込む作業が主であった。鉄分の多い銅鉱石は本当に重かった。
夜になって、ようやく自分本来の仕事に就くのである。
技術員も同様で、作業日誌をはじめ机に向かう仕事は、大体夜業となっていた。疲れた体で夜を向かえた人は、家族に思いを走らせつつ眠りに入る。
その時ドブは人々の心を、ほのかに温めてくれるに違いなかった。
もう役目を解かれた酒樽が、感謝の思いを込めて、それまでの場所に置かれているとするならば、いかにも酒の神様が喜びそうな話になるのだが・・・。