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北海道・北の果ての鉱山開発1

序文

 現在国内鉱山で有名なのは鹿児島県の菱刈金山くらいです。
しかし、かつては国策・戦争資材として銅を始めとした資源獲得の為
多くの国内鉱山が存在しました。特に銅は太平洋戦争を遂行する為に
増産が必要とされ、金・銀鉱山を止めても開発が求められました。
 そのような時代背景の中、下川鉱山は昭和18年(1942年)頃から採鉱が開始されました。
(詳しくは下記ウイキペディア:https://ja.wikipedia.org/wiki/下川鉱山参照下さい)

 本記事は、その開発に携わった一人の若手職員の思い出を記録したものです。
当時の世相、日本の辺境地での苦闘を率直に記録したもので,、著者も没しており、受け継いだ私も老齢に達し、このままでは、ただ埋没するだけです。

現在も世界各地で起きている紛争、われわれ日本は、ある意味他人事のような平和な社会に浸っています。

ほんの80年前です。現在と隔世の感は有りますが、昭和を生きた一人の思いを投稿しますので、興味を感じて頂ける方はご覧下さい。

下川鉱山1
下川鉱山2

本文

下川鉱山

 昭和18年の春、北海道上川郡下川村所在の下川鉱山が、急いで開発されようとしていた。
 北海道には上川郡と呼ばれる土地が3か所あって、郵便番号の無かった当時は上川郡の上に天塩国書くことが必要であった。
 てしおのくに、と読むのである。これは北海道にある独特の行政区分であろう。
 この下川村は、その後町制に移行して現在に至るのであるが、北海道の中心部旭川市から更に北上する宗谷本線によって名寄市に至り、そこからオホーツク海を目指す名寄線に乗り換えて、小一時間の距離にある。

 道都 札幌 からは、その頃、一日がかりの道のりだった。
帝室林野局と言って、皇室財産の山林を管理する役所の出先があった。
御料と呼ばれていた。
 その山林から伐り出された とどまつ やちだも などの原木をもとに、
小さな製材所や合板工場があったが、村の産業の主体は、北限に近い水稲と
澱粉の原料となる馬鈴薯(ジャガイモ)作りの農業であった。
 駅の近くに、役場、郵便局、駐在所が、狭い地域にまとまった市街が村の中心で、五分も歩くと家並みは途切れがちとなる。

 この村にかつては大金山があった。
市街から北の方向に数キロ、戦時色が強くなり休止したサンル金山のことである。
 金鉱業整備令とかいう法律によって軍需面から、さして必要のない金山は閉鎖されることになって、従業員も設備機材も、より軍需に密着した方面に振り向けられたので、さすがの大金山も廃墟と化していた。
鉱山と人間社会との価値観の結びつきを示す一つの姿であった。

 下川鉱山が産声を上げたのは、まさに軍需資材に直結した鉱石を埋蔵していたからに他ならない。
 金山の閉鎖と銅山の開発開始が近かったことに村人達は、戦争の厳しさを感じていた事であろう。
 下川鉱山の位置はサンル金山とは逆に、南側に14キロほど離れた奥地であった。アイヌ語の地名がそのままで、ペンケと呼ばれる地を通るのである。

 沢合の両側は台地になっており、しばらくは農地が続くがそのうちに沢が狭まり原生林の中に入って行く。
 クネクネ曲がったペンケ川に沿った道は、湿地帯に作られた形ばかりのもので、足首までぬかった。

 道の両側の巨木と熊笹の茂みで日光は遮られ、もはや人間とは縁の無さそうな地である事を、嫌でも教えられるのである。
 ここまで10キロほど入り込むと、もはやヒグマの領域であるし、夏場は馬アブと言う吸血昆虫を避けながら歩き峠道の入口ペンケに到達する。
ここから更に4キロ、標高差200メートルの峠を越えて、ようやく鉱山開発地点に達するのである。

 9月になると急ぎ足で寒さが訪れる。夏から秋を抜いて冬になる。
そう思えるほど早く雪に包まれてしまうのが北海道北部の気候であった。
厳しい寒気は翌年4月まで、雪を溶かそうとしない。

 人々は雪が来る前に越冬のため宿舎の雪囲いをし、カンジキのありかを確かめる。
 鉱山では、働く人達の食料や燃料を蓄えておかねば、冬の間の操業ができなくなってしまうのであった。
 汚い話ではあるが、便槽をさらえておくのも、この地では常識であった。
ボットン便所で氷結成長する曹中の便柱を倒すことが必要であるから、倒せる空間を作っておくという事なのだ。

続く





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