北の果ての鉱山開発3(転勤命令)


https://www.google.com/maps/place/手稲鉱山跡/

 話をまた前に戻す。
 札幌市の郊外、手稲山の麓にある手稲鉱山では道北の下川村に買収して2年ほどの新下川鉱区の開発を巡って、開発要員の選定が行われていた。
時は昭和18年春の事であった。

 坑内に入って鉱石を掘り出す者、掘り出された鉱石から不要部分を除去する選鉱の仕事をする者、鉱山の多くの設備を保守する者など、鉱山を営むには他の産業に劣らぬ多くの職種が必要であった。
 下川向け要員も、そうした配慮が必要であった。

 労務課の小部屋に、連日のように誰かが呼び込まれていた。部屋の中には労務課長と所属課長などがいて、 下川行き を言い渡すのであった。
 月給者とは違って、日給制の労務員には転勤と言う制度が無かった時代であったから、言い渡しを受けた者の中には家庭の事情もあり、何とか逃れようと、あがく者もいた。

 手稲から下川へは一日がかりの旅となるし、何よりも困るのは社宅が無いために家族と別居になる事であった。一家の主が居ると居ないでは家族の安心感に大きな違いがあったし、下川に行ったとしても収入が増える保証もなかった。
 だが、太平洋戦争の戦況は、次第に日本に不利となってきて、個人の我がままを言える社会情勢ではなかったし、非国民と言われるのが嫌で結局は転勤命令に従うこととなる。
 こうして、手稲から下川への労務員の移動が行われたが、技術員や事務員についてもそれは同様であった。
 東洋一を誇った大選鉱場を持った手稲鉱山は、元来 金・銀山として発展したものであったが、金鉱業整備令によって金銀から銅を含む鉱石へと採掘の方針を切り替えたものの、思うに任せぬ地下資源の事でもあり、赤字に苦しんでいた。
 手稲鉱山を維持するためには、銅鉱石に希望が持てる下川鉱区開発に重点を向けるしか無かったのである。
そのため、必要な人間、機械類、そして建屋まで下川に振り向けようとしていた。

 人間について、誰が行くかは別として、いずれ人選の発表があるだろうと思っているのだが、事務所の中でもそれに触れるのは一種のタブーであった。
 要するに個人の立場では、誰もが皆、熊の住む山奥を恐れていたのである。
 鉱山には、まだ徴用と言う軍属に準ずる制度が実施されていなかったので、兵役に対する特別な配慮は全く無かった。

 軍隊への現役入営は勿論、召集によって若者は次々に兵役に就くことになって、鉱山の職場は坑内も坑外も年長者ばかりで、ごく一部に召集前の若者がいただけであった。

 このような状態であったから、下川に向けられた人間は世帯持ちの中年者が主力となり、気持ちばかりの特配酒を仲間と飲み交わし、手稲を出て行った。
 土木、建築の技術員達が先発していたが、その多くは出張扱いで、苦労の内容は別として工事が済めば、手稲に戻れることもあり、顔色は明るかった。
 転勤と出張の違いが、顔つきにまで出ていた訳である。

 その年の秋も深まり手稲山が白くなった頃、下川出張から帰った労務課長が自分の席に向かって歩きながら私の名を呼んだ。
 そそくさとオーバーを脱ぐと課長は、「寒くなるのに、ご苦労だが下川に行ってもらう。なるべく早く出発するように」と言って、他の用件の為に人を呼んだ。
 私は仕方なく、課長に聞こえる声で「ハイ」と言った。本当に短い時間であったのだが、頭の中を色々な事が走り廻った。

 戦争が始まったことで、商業学校の最後の三学期を待たずに、この鉱山に努めてから二年、その当時150人ほどの選鉱員の賃金計算を女子の補助員と二人で担当していたが、どちらかと言えば軽い仕事だったので、
これも兵隊に行くまでの、期限のあるユトリと思っていた。

 それに課内には十人以上の先輩上司がいて、下川へ行く世話係も、その人達の中から選ばれると思っていたので、まさか、そんな役割が自分の上に降ってくるとは考えてもいなかったのである。

 一番肝心なことは、この鉱山に入ってから二年間、籍は労務係であったものの、外勤と言って労務員の生活指導や出勤の督励といった第一線の仕事をしたことが全く無かったのである。

 課長が何を期待して選んだのか、もう確かめようがないが、当時の課長命令は絶対であったし、結局その命令に従ったことで、今日を迎える事が出来たのだから、不満を言うつもりはない。

 多くの同年の友人がシベリヤで憤死する目にあった事からすれば、下川への転勤は、短い生涯での一ポイントになったに違いない。

 支給された、なにがしかの支度金を手に、友人達と小樽の街に出た。
生まれて初めて入ったカフェーでは、酒を出してもらえなかった。
オデンをつついて、カフェーでのひと時を過ごしたが、皆の目に私に対する同情がありありと感じられた。

 雪が降っている夜であった。

続く




いいなと思ったら応援しよう!