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北の果ての鉱山から九州の槙峰鉱山へ

転勤の背景

半年ばかり東京にある職員組合連合会の役員に専従した事で、鉱山に復帰した時には担当する仕事が無かった。
 鉱山を出る時引継ぎをしたからである。

 3才と1才の息子達は、父親を忘れてしまったのも困った事であったから、私にとっては、公私共に納まるところのない復帰の姿であった。

 こうして日を過ごしているうちに、北海道から一番遠い事業所、宮崎県の槙峰への転勤の社命を受けた。

 満9年籍を置いた下川を出たのは、組合専従の結果であり、自分自身が作った道と言えなくもない。
 当時、炭鉱のストライキが続行中で、国鉄は機関車を走らす石炭が底をついて、相次ぐ列車削減が行われていた頃であった。

 「学歴も無いお前が、九州へ転勤するのは、悪い事したからではないか」と北海道生まれの母親を心配させた事もあったが、本人は「なるようにしかならない」と割り切っていた。

 妻は樺太生まれの樺太育ちであったから、九州と言うのは外国に等しい感じを持っていた。
 幼子を抱えての長旅、それれも不自由な交通事情の元であったから、妻にしてみればとんだ厄介に見舞われたと思ったようだ。

 九州への旅は後ほど改めて書くことにするが、槙峰鉱山とは、一体どんなところであったか、その概略を話して置きたい。
 門司港から別府を通り西鹿児島に至る日豊本線の中間位に旭化成の城下町 延岡 がある。この延岡で日之影線(現在の高千穂線)に乗り換えて約一時間、五ヶ瀬川に沿ったこの支線に 槙峰駅 がある。
 その駅名は近くの槙峰鉱山から付けられたもので、本来の地名ではない。それくらい地域における鉱山の比重は高かった

 いつの時代から開発されたのか明らかではないが、領主内藤家の経営する銅山があった事は確かである。
 正確に言うと内藤家が実際に稼働していたのは、少し離れた場所で 日平鉱山(ひびら)と言われ、槙峰は隣になっている。

 明治の初期に、この殿様が大相撲の 友綱 にプレゼントしたものであるらしい。隣だから、ひょっとすると鉱山で飯が食えるかもしれない位の気持ちで受け渡しされたものと推測される。

 日平鉱山は断層のため底部で鉱脈が切れてしまったので、明治末期頃には閉山となったのだが、広大な遺跡として当時の盛業を忍ばす姿を残していた。その日平鉱山の断層先が槙峰鉱山として開発されたのは、友綱の手を離れ、三菱の経営となってからのようだ。

 明治の中期以降、主として岡山県吉岡鉱山、兵庫県生野鉱山から、経営幹部が派遣され鉱石を掘り出すし、製錬を行い粗銅として五ヶ瀬川の船便で延岡近くまで運び、そこから、大阪方面に送り出されていたと言われる。

 鉱夫は地元の人達もいないではないが、何故か四国愛媛県の出身者が多いい。
 宮崎県の北部の商人は、そうした愛媛の出身者が多く、大所を握っている事をみても、この地方は人口の少ない未開地だったのかも知れない。

 商人になり切れない人達が、鉱山に入って行ったようである。
 それは、あくまで憶測に過ぎないが、多くの若者達が石刀と言うハンマーでノミ(たがね)の頭を打ち、発破孔を掘る練習跡を随所にみる事ができて、いかに当時、一人前の坑夫となる競争が激しかったかを知ることが出来る。

 大正の初期には、圧搾空気を使った 削岩機 が登場しているから、その堀跡は明治時代のものと推察される。

 土地の古老の話によれば、昭和の初期まで坑夫の 友子同盟(終戦直後2ご参照下さい) があって、坑夫取立て式が行われていたとの事で、鉱山は盛況を続けていたようだ。

 この鉱山の鉱石は 含銅硫化鉄鉱 と言って、鉄を土台とした重く、そして堅い代物で掘り出すには難物であった。坑体は板を斜めに地下深く差し込んだ形で、その板が普通の岩石を隔てて重なっていたから、坑内の現場は斜め下に向かって掘り下がることになる。
 従って、鉱石の搬出は掘るのとは逆に運び上げるので、機械化の不足な時代には難儀であったし、また湧水の始末にも苦労したようである。

 隣の日平鉱山には、そうした坑内の水を集め、坑外に流す長くて立派な疎水坑道があった。日平は山の高い所から掘り出したので、疎水坑道は効果的であったのに対して槙峰鉱山は、五ヶ瀬川の支流である綱の瀬川よりも低い所に大部分の鉱体があった事で、疎水坑道は作れなかった。
 比較的河川より高い所を掘った昔はともかくとして、近代は更に深く掘り下げて行くのであるから、排水は時代の経過と共に益々厄介な問題となって行くのであった。

 坑内は高温、多湿であり、そこでは前だけ布切れで隠した男達が、汗で体を光らせて働いていた。後ろから見ると全裸に見えた。
 
 槙峰鉱山は戦争中に国内でも記録的な産銅を示した。

 昭和10年頃、瀬戸内海の小島(直島)に近代的精錬所が出来たので、山元での製錬は廃止していた。坑内から出る鉱石は立て坑を通して運び出し、選鉱場で銅成分の濃い精鉱として、瀬戸内海の精錬所へと送られていた。
 従って、赤胴色の精鉱はみる事が出来なかったが、軍事物資の増産と言う事で、果たした役割は大きかったのである。

 だがそうした無理な増産は戦後ヒドク鉱山を苦しめる結果となる。

 戦後はいち早く新規な人員補充は止めると共に、人員圧縮に努めていた。かつてドル函と言われたこの鉱山が、戦時中の乱掘により疲弊し、会社内の金食い虫とまで言われる期間があったが、戦後数年して、どうにか採算が取れるようになった。私が赴任したのは、
そうした一息ついた時代であった。

日本縦断列車旅

 話は戻って、北海道から九州までの本土縦断の旅について語る。
12月の上旬であったが、下川はもう雪が積もっていたので、客そりに乗っての出発であった。
 いつも転勤者を見送る場所には多くの人が集まっていた。この地では、お別れする時に餞別を手にして、出て行く人のポケットに押し込むのがしきたりになっていた。
 ポケットが一杯になると付き添いの者が預かる。
 こうした一面むき出しな風習は、この鉱山だけの経験であったが、素朴な人々の姿を表してもいた。
 やがて馬橇が出発するとなっても人々の列が続き、餞別を渡しきれない人々は走り寄って賽銭を投げるようにして、そりの中に投げ込んでくれた。
9年の歳月の間に知り合った人々の好意に胸が熱くなり、必死に涙をこらえた。
 下川駅頭でも多くの人達が見送ってくれた。
最初に赴任した時は誰一人出迎えの無かった駅のホームを埋めてくれた人達、9年間の付き合いであったが、もっと昔からの知己と別れるように惜しんでくれた。
 鉱山での見送りといい、駅頭の別れといい、交際下手な私に対してよりも、世帯を持つまで看護婦として患者にやさしく対応していた妻に対するものが大きかったかもしれない。

 このようにして汽車に乗り、名寄、札幌と乗り継いで東京への途についた。やっと手に入れた特二の切符は二枚だけだった。
 炭坑ストの長期化により二次、三次と列車削減が行われていたから、切符の入手は非常に困難な時期で、夫婦分あったのは幸いなのだが、長い時間子供を膝に乗せているのは決して楽な事ではなかった。

 そして上野に着いたが、東京から先の切符は持っていなかった。
 何泊かして、ようやく世話して貰ったのが、駐留軍向けの特殊列車であった。知人達から菓子、果物の差し入れに紙オムツも含まれていたが、満一才を過ぎた次男には、とても役立つ物では無かったが。

 特殊列車は米軍が主体で、日本人も少々乗っていたが、駅では物売りを入れなかった。
 食堂車から予約を取りに来るのだが、どんな料理か見当もつかなかったし、外人に圧倒され食堂車に行く気にはなれなかった。東京で貰ったものを食べて空腹を凌いだ。

 大阪で米軍部隊が下車すると、列車の暖房は切られてしまった。
 大阪到着はもう夜で、暖房の無い車室は冷える。無心に眠る子供に自分達のオーバーコートを掛けて、寝ずに夜を耐えた。眠れば風邪を引く、戦後の日本人の惨めさを味合う夜であった。

 ようやく九州に入り門司港駅で特殊列車降りた時は朝であった。
駅前の飯屋で、どんぶり飯と味噌汁にあり付いたが、最初に注文したのはカン酒で、その何と旨かった事か

 この駅が始発の日豊本線には急行列車が無かったので、普通列車に乗るしかなかったのだが、九州に入れば近いと思っていた延岡は、はるかに遠かった。
 延岡に着いたのは夜になっていた。南九州の暖かい夜風に驚きながら、日之影線の最終列車に乗換えて槙峰に入ったのである。ようやくの思いであった。色々な事を経験しながらの赴任の途であったが、別府駅に着いた時、幼い子供たちの疲れが気になって、途中下車しようと思ったが、妻の意見で延岡迄乗り継いだ。
 もし別府で下車していたら、大変な事になっていたのだ。金が無かったのだ。
 私は妻が持っていると思っていたが、妻は私が持っていると思っていた。

 下川で頂いた心尽くしの餞別であったが、日頃持ち付けない大金に浮かれて、1週間の間に浪費してしまったことになる。

 槙峰に着いてから、その事実が分かったのは、幸いであった。最初の仕事は、給料日までの生活費の借金の申し込みであった。


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