個性が重要な時代になる前に、超コミュ力至上主義時代がやってくる?
<目の前にあるのは、コミュ力至上主義時代>
AIが普及することにより、人は単純労働から解放され、より個性が重要になる時代がやってくる。
そんな話は、みんなも様々な場面で見聞きしていることだろう。
基本的には私も同意で、一律に月々の収入を国が保障するベーシックインカムなどが実装されればと心から思う。
しかし、その過渡期(かとき)においては個性が活きるどころか、コミュニケーション能力(コミュ力)があるかどうかのみで格差が分かれる時代が来ると思っている。
なぜなら、コミュ力を必要とする作業かどうかで、AIに取って代わられる時期にギャップが生まれるからだ。
コミュ力がある=仕事がある
そんな、単純な式が成り立つ時代が、それなりの長さで存在することになるだろう。
<もし学校の授業が英語で行われていたら>
例えばだが、「中学校は日本語ではなく英語で全ての授業を行います」
と文科省が言い始めたとする。
ちなみに、海外には結構そんな国が存在する。
すると、みんなの成績はどうなるだろうか。
人には数学が得意な人、社会が得意な人と、様々な得意不得意がある。
しかし、その授業を英語で行うとなると、そもそも英語ができなければその他の授業を理解することができない。
いったん英語というふるいをかけられた上で、全ての科目の評価がつけられることになるわけだ。
数学が得意で英語が苦手という人は、一定数いるだろう。
てか私がそのタイプ、英語キライ・・・
しかし、いくら数学が好きでも英語ができないならば、数学の成績も下がるほかない。
つまり、どちらの成績も悪いという結果のみ通知表に載ることになる。
それと同じことが、仕事において、コミュ力というふるいを使って行われるような気がしないだろうか。
どんなに他の成績が良くても、コミュ力が低いばかりに他の良い部分が表にすら出てこない。
そんな時代がしばらくやってくると思うと、結構ぞっとするのだが。
<コミュ力以外を見れる力を>
これまで天才と呼ばれてきた人たちの中には、むしろ障がいレベルでコミュ力がない方も多い。
まず真っ先にコミュ力でふるいにかけられる世界で、特定の分野に秀でた子どもがさらに不遇な扱いを受ける時代になるかもしれない。
コミュ力がないだけで初期に全ての自信をなくし、自分を大切にする気持ちを失ってふさぎ込んでしまえば、それは長い目で見て世界の損失となるのではないだろうか。
ただ、AIの流れは止められないし、止める必要はない。
大事なのはそんな変化の中でも、コミュ力以外の部分と向き合い、その違いを見いだすことができるように接することだ。
直近でやってくるコミュ力至上主義時代に活躍できるのは、実はコミュ力以外の力を自分にも相手にも見いだせる人物なのではないかと思っていたりする。