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自分がバカであったと分かるなら

自分がバカであったと認められるならば、それは成長したとか、良くなったとか、進歩した証だろうか。
人間は本来的に間違いをおかすとか、誤りに陥るとか、そんなことになる習性を持っているのだと感じられるには感じられる。
やはりサルから進化した生物であるのだ。
その宿命からは逃れられないのだろう。
その時はそれで最善を尽くしているつもりであるけども、後から見れば、それが相当に見当違いであったりすることはよくあることではないか。そうでもないか。
ないと言うなら、その人は幸せであろう。
それでそうやってこの世界で成功している人の脳はどうなっているのだろうか。
成長がうまくいった結果として、そうなれたのだろう。
そう表現できるはずである。
では、人間は実際にどうやって成長を可能とするのだろうか。
成長という概念はそう考えてみると分かりやすくもない。
その本質的な意味は難しい。
僕のような凡夫に窺い知ることはできない。
しかし、能力に差があるのは、事実で、それは動かしようもない。
自分がある能力に恵まれて、また、人がまたある能力に恵まれていて、それが自分に足らない場合はやはり羨望が生じるだろう。
そういった感情が判断力を乱しているのかも知れない。
この世界は基本的に人間に都合よくはできていないと思う。人間はある時間、この世界に滞在して、そして、去っていく。僕としてはその滞在時間がこれほどまでに人間で長くなるのは何のためであろうかと、勘繰りたくなる。
長い場合だと、それは百年を越える。
だが、それになんらかの意味や理由はあるのだろうか。ただそれが可能なことだから、そうなる訳ではあるのだろう。
そこに善悪はあるのだろうか。
世界はやはり人間のためにあるのではない。
人間は運命として、この世界に誕生し、ある程度の時間を生息し、そして、死滅していく。
これだけのために何故、世界はあるのだろう。
別になくても構わないのではないか。
それは確率的に、そう言う確率もあるのではないか。
でも、現に世界はあり、僕はこうして存在している。
そこに意味や理由はあるのだろうか。
あるとして、それは何に尋ねればいいのか。
その答えを知るものはいない。
神仏は沈黙している。
ただ世界を疑問に感じる自分が実在している。
それは何の意味があるのか、どうしてもそう勘繰りたくなる。
自分が何のために生きていて、何のために死ぬのか、
それがどうしても気になる。
しかし、それを勘ぐることはナンセンスではあると思う。
しかし、それを考えることをやめることができない。
何度も考えたって、その答えは分からないのに、何度も何度も考えてしまう。
これは脳のエラーなのだろうか。
脳は世界を理解できないのだろうか。
世界や現実を僕の脳はどう捉えているのだろうか。
ただ誕生してから、我という観念があり、それとともに自分も実在している。
幼いころに鏡を見た時、そこに映っているのが、
自分だと理解できない面もあった。基本的には自分と理解しているが、それが何故、自分なのだろう。
自分とは、今の自分でなくてもいいではないか。
でも、因果法則や物理法則から言って、自分がそんな変異を起こす訳もない。
それも恐らく分かっているのであろうが、でも一方で、それが何故だろうと、訝る自分もいる。
宇宙の彼方にはそんな世界も実在できるのだろうか。
分からない。
でも、そう勘繰りが可能なら、そうでもないのだろうか。
自分というのも曖昧な観念である。
自分は自分で揺るぎようもないのに、
それすら疑問に感じる。
それは何故なのだろうか。

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吉谷匡将
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