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神聖なる心で

秋のお彼岸の時期となりました。

僕の実家は、祖父母、両親がクリスチャンだったので、お墓参りの習慣がありませんでした。
だけど、僕自身は宗派にとらわれず、この時期になると父の供養を心がけています。
ただ、ここ数年は、まともに父を想うこともなかったので、今秋はちゃんと供養に行く予定です。

「供養」というと、日本では「先祖供養」の印象が強いように感じます。

供養(くよう)は、サンスクリット語のプージャー(pūjā)またはプージャナー(pūjanā)の訳で、仏、菩薩、諸天などに香、華、燈明、飲食などの供物を真心から捧げること。

日本の民間信仰では、死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多い。これから派生して、仏教と関係なく、死者への弔いという意味で広く供養と呼ぶこともある。また動物等に対する供養、さらには針供養や人形供養のように生き物でない道具等に対する供養もある。

Wikipedia より

信仰者の家庭に育ったので、僕自身にも「尊い御存在に供物を捧げる」という行為は身についているのを感じます。

僕は、筆文字作家として活動しているのですが、“描く”という作業にも、神聖なる想いを込めています。
現実には、僕の表現能力が仏画や聖画に及ばなくても、仏神に捧げる想いで取り組んでいます。
筆文字作品を描いていますが、僕自身は、“ことばクリエイター”である自覚をもって、“ことば”を最重要の要素としています。
ですから、仕上がった作品は、我がアトリエの“祭壇”ともいうべき聖域に奉納します。
“奉納する”ということは、「神さまが御覧になられたとしても恥じない“ことば”、“作品”でなくてはいけないという意識が強くあります。

筆文字修行を始めて、今日で3319日。
実は、「自分の作品を奉納する」という意識は、最初の頃から持ち続けていました。
たまに、過去の偉人の名言・名句を描かせていただくこともありますが、単に「そのことばが良いから」とか、「なんとなく良いことを言ってるから」とか、あるいは「このことばを描いたら、周りが感心してくれるような気がするから」とかいう浅はかな気持ちで描くことはありません。
そのことばを発された方に敬意をこめて、最大限、そのことばの真意バイブレーションを探究した上で描かせていただきます。
そして、描き終えたときには、感謝の想いを捧げます。

また、自分が思いついたことばであっても、「そのことばは自分のものであって自分のものではない。自分を介して、インスピレーションという形で賜ったものだ」という意識で描かせていただきます。
だから、やはり、描き終えたときには、感謝の想いを捧げます。

仕上がった作品ことばは、SNS等でも公開しています。
良い評価をいただいたときには、そのことばを降ろしてくださった御方(僕の感性は発展途上なので、どなたかなのかは分かりませんが)に感謝をし、充分な成果がなかったときには、自分の表現の未熟さを反省します。

本日の作品「ことば供養」も、ふっと浮かんできたことばです。
そして、そのことばにこめた想いは一言では伝えきれないので、こうしてエッセイにしてみました。
久しぶりにエッセイらしいものを綴ってみると、自分が伝えようと思っていたことの奥にある想いも顕れてきて、自分でも感心してしまいました。

これからも、このような神聖なる心で描き、綴っていきたいですね。

本日の作品は、「ことば供養」というイメージで描かせていただきました。
たとえ小さな欠片でも、神聖なる想いが伝わることを願って。
そして、(この作品に限らず、)僕のことばで、心の光を強くする方が増えていくことを願って。

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せいた@天蔵
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