国立慕情(2)

  国立に住んだことのない慕情ですが、中・高・大学と10年間通い、その後も大学のバスケットボール部のОBとしてコロナ前まで通った国立には、たくさんの思い出があります。

  残念なのは、桐朋学園は、男子校(女子校は京王線仙川)一橋大学は、全学で女性が一人、甘い思い出など一つも無いということです。<質実剛健>がモットーだった男子校、女子高との交流は、年1回、運動会に女子高(確か高2)が出張してきて集団演舞を見せてくれる時だけでした。
 さて、桐朋学園は、前身は山水中学校といい、軍人の子弟のために、昭和16年に開校した特別な学校でした。敗戦で、普通校・桐朋学園に変身しますが、その過程には、戦前、軍の関係した学校ということで、多大な苦労があったようです。

  戦前・戦後の歴史の断片として関心もあり、「桐朋学園男子部門・75年史(永遠に新たに)」から推移を抜粋してみました。

75周年

 学校法人桐朋学園の前身である財団法人山水育英会が設立されたのは開校の前年、1940年(昭和15年)、戦時体制下、中国諸方面の戦場、東北地区(当時満州国)の軍の基地、東南アジア方面と日本内地の間を常に転勤、所属して廻る陸海軍の軍人、軍属は、子女の教育に困り、転校、進学の不安のない寄宿舎のある学校の設立を求めていました。
山下亀三郎は、いわゆる立志伝中の人、山下汽船会社を設立し、第一次世界大戦で船成金として声名をとどろかせ、その後浮沈を繰り返したが日中戦争の海軍で巨利を得た。
 この戦争に際会して技術立国を志し、科学技術系の大学設立を企画し財界に呼びかけたが反応がなかったという。この時たまたま前記の陸海軍人子女教育の不安をきき解決のため私財一千万円を寄付しました。
 陸海軍当局は、『軍人子弟の教育機関設置要綱』を作成、寄付金を2等分して内地と満州にそれぞれ五百万円とし、東京に男女2校の設立を決定した。万葉集の大伴家持の長歌に引く古謡「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大皇の邊にこそ死なめ 顧みはせじ」から山水の名を得て、校名を山水中学校、山水高等女学校、とした。
  校地の取得は、小田急線、京王線、帝都線(現井の頭線)、中央線などの各沿線11候補地の中から、規模、形状、環境に優れ、坪単価も安い中央線国立駅南方の箱根土地会社の分譲地を昭和15年9月に取得した。 敷地面積は、2万2600坪、坪単価10円50銭、総額23万8140円だった。
設計は陸軍省の設計課によって進み、工事は藤木工務店、16年4月の開校までに7教室、校宅4棟が完成した。
  生徒の募集は2月、法規上の問題があって、文部省、東京府からの指導で一般子女にも開放することになり1年200名、2年転入50名を公募した。結果は、1年183名、2年23名で、軍人軍属子弟139名、一般子弟67名だった。
 開校は、昭和16年4月8日、初年度入学者は204名、教師は校長含め15名、5月には、東条英機・陸軍大臣が来校、校内巡視、授業参観、生徒への訓示を行った。さらに、かねてから山水育英会の傘下に入るのを希望していた大阪府の偕行社付属中学校の受け入れが3月末に決まり、国立を第一山水中学校、大阪を第二山水中学校として開校した。

  以上のように、山水中学校は民間人の軍への寄付金で設立され、軍人の子弟の教育のため、軍によって校舎は設計され開校している。桐朋では10期生なので高校の2・3年生には戦前入学者がまだ残っていた。1年に入学したときの英語の教師は、開校時の名簿に名前が載っていた。戦後、すべて一新とはならなかったようだ。
  新入生は250名、中央線沿線の小学校出身者が大半だった。小金井、国分寺、国立、立川が多数で、そのほか中野、杉並の都心、吉祥寺、三鷹、八王子などの都下も、まとまって入学していた。その他は、青梅線の青梅、五日市、山梨県の上野原、京王線の府中からだったが、地元を中心に地域に偏らず、広く集めていた。今思えば、山水色を消すという学校側の意図があったように見えるのだが・・。

  中学に入り、二年時のクラス替えの時に、担任の先生に硬派とみられたのか、問題児グループと一緒に留め置かれ、三年間同じ先生の担任となった。しかし、先生が数学が専門だったので数学が好きになり、大学受験のときに一橋大は、英語と数学の配点が同じで、大いに助けられた。

桐朋学園卒業

       昭和31年3月卒業時の学園アルバムより

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