つだたか

1937年東京吉祥生まれの老人です。私の学生時代の東京(特に吉祥寺、国立近辺)について書いています。

つだたか

1937年東京吉祥生まれの老人です。私の学生時代の東京(特に吉祥寺、国立近辺)について書いています。

最近の記事

国立慕情(5)申酉事件

 記憶は朧ですが辻井喬の「父の肖像」に、国立の一橋大学の用地は、西武の創業者堤康次郎が斡旋、学校側はもっと広いところをという希望だったが、中央線沿線では、あそこ以上のものはないと、納得してもらったということのようです。考えれば、堤康次郎は、一橋大学にとっても、国立の街にとっても大恩人ということになりますが・・・・。  国立駅南口正面の広大な大学通りを500メートルほど国立高校、南武線の谷保駅の方へ歩くと、右手に大学の正門があります。左手の東門を入ると赤煉瓦の東校舎があり、そ

    • 国立慕情(4)渋沢栄一

       日曜夜のNHK大河ドラマ「青天を衝け」、ドラマはこれから佳境に入るのでしょうが、主人公の渋沢栄一は、一橋大学にとっては大恩人です、渋沢栄一の支援がなければ、一橋大学は存続しなかったと言えます。大学の歴史の中では、申酉(シンユウ)事件として知られる一番の危機を迎えた事件があり、「申酉(シンユウ)籠城事件史」:(著者・依光良馨・発行・申酉(シンユウ)籠城事件記念事業実行委員会・平成3年10月7日)という記念本が発行されています。渋沢栄一は、外部からの支援者、救援者としてたびたび

      • 国立慕情(3)

         中学に入学した昭和25年(1950年)4月のころは、朝鮮戦争勃発前で、日本中、みんな貧しく、飢えていた。給食がないので弁当持参で通学、中身は「のり弁」「日の丸弁当」が普通だった。 朝鮮戦争が始まり、特需で景気が少し良くなった中学3年の頃になると食糧事情が少し良くなり、午前中の授業の合間に弁当を食べ、昼は、校内、販売のジューキパン,下校時には、国立駅近くの「藪そば」でかけソバ、家に帰って夕食、と一日中食べていたような気がする。家庭にテレビがまだ無い時代で、街頭テレビで力道山と

        • 国立慕情(2)

            国立に住んだことのない慕情ですが、中・高・大学と10年間通い、その後も大学のバスケットボール部のОBとしてコロナ前まで通った国立には、たくさんの思い出があります。   残念なのは、桐朋学園は、男子校(女子校は京王線仙川)一橋大学は、全学で女性が一人、甘い思い出など一つも無いということです。<質実剛健>がモットーだった男子校、女子高との交流は、年1回、運動会に女子高(確か高2)が出張してきて集団演舞を見せてくれる時だけでした。  さて、桐朋学園は、前身は山水中学校といい、

          国立慕情(1)

           新型コロナウィルスの感染拡大が予断を許さなくなったのと、身体的な衰えが進む心配から、二度と行かれなくなるかとの恐怖にかられて(?)、3月の桜の時に、ほぼ1年ぶりに国立へ行きました。  国立駅舎の移動工事が終わり、国立の象徴であったとんがり屋根の旧JR駅舎が記念建物として残され、市民の憩いの場になっていました。↑の写真は、駅前の多摩信金のあたりから見た国立駅前です。  国立の地を初めて踏んだのは、桐朋中学へ入学したときの昭和25年(1950)年4月ですから、国立と

          国立慕情(1)