国立慕情(5)申酉事件
記憶は朧ですが辻井喬の「父の肖像」に、国立の一橋大学の用地は、西武の創業者堤康次郎が斡旋、学校側はもっと広いところをという希望だったが、中央線沿線では、あそこ以上のものはないと、納得してもらったということのようです。考えれば、堤康次郎は、一橋大学にとっても、国立の街にとっても大恩人ということになりますが・・・・。
国立駅南口正面の広大な大学通りを500メートルほど国立高校、南武線の谷保駅の方へ歩くと、右手に大学の正門があります。左手の東門を入ると赤煉瓦の東校舎があり、その奥に新しい建物、「森有礼高等教育国際流動化機構」があります。体育館の手前なので気になり、大学とどのような関係にあるか数年前に学長経験者に聞いたのですが、「知らない、ノータッチ」と素っ気ない返事でした。渋沢栄一がいなければ、一橋は無かった、と言う声はききますが、森有礼がいなければ一橋は無かったとの声は、あまり聞かず、その差が不思議です。
さて、官尊民卑の時代、明治政府は、この民間による商業教育の発展を好まず、明治41年(戊申の年)4月30日、帝国大学法科大学に経済学科を増設すると一方的に決定しこれを公表しました。ここから一橋大学の歴史の中では、申酉事件として知られる一番の危機が始まります。「申酉籠城事件史」:(著者・依光良馨・発行・申酉籠城事件記念事業実行委員会・平成3年10月7日)という記念本が発行されていますので、それに従って事件の内容をご紹介したいと思います。記念本は、後輩に伝えたい、知っておいて欲しいという強い思いで作られています。民間の知恵による工夫と努力を一瞬にして無にする公権、現代でも同じ傾向がつづきます。事件を知ることは、単に一橋関係者にのみに限ることでは無いと感じています。
「商科大学設置に関する決議案」は、明治40年2月に衆議院、3月に貴族院でが可決されました。一橋では、学生が2月に学生大会を開き、全校1500人の賛成で、文相と両院議長に充てた請願書を議決します。ところが、当時の松崎校長が、政府の意に反すると考え、学生の請願書を政府に取り次ぐことを拒否したために、校長排斥運動が起こりました。そして学生5人が退学、1人が無期停学の処分を受けました。この時、渋沢男爵は憂慮して学生大会に出席、血気にはやらぬように慰撫演説を行い、学生は校長排斥運動を取り下げ落着しました。
しかし外では、4月中旬、時の文相は、「商業に独立の単科大学は不要、商科大学は帝大内の一分科(商学科)として設置すれば十分」とし、「商科大学は帝大内の一分科として設置」と省議決定し帝大教授会に対し諮問したのです。
言論界は、文部省のやり方が不可解と猛烈な反対輿論をまき起こしました。渋沢男爵は次官を訪ね「姑息な策は止め、独立の商科大学を作れ」と申し出ますが、文部省は反論、その頑迷さにあきれて渋沢男爵、商議員は「この問題から手を引く」と言明、佐野善作教授他3名の教授が「多年の主張が通らず、最早や現職に留まる意志はない」と連袂辞職を表明しました。しかし、世間の目は甘くなかったようです。夏目漱石は、「吾輩は猫である」の中で、「僕は学生時代から実業家は大嫌いだ。金さえ取れば何でもする。昔で言えば素町人だからな」と言い、また日記(明治42年4月25日)には、こんな風に書いています。
「商科大学を帝大内に置くことで、東京高商の生徒が同盟休校をするらしいと新聞にのっている。もともと一橋の生徒は、在学中から商売の掛け引きをする。千余人の生徒が母校を去る決心だというが、それが、おどかしでなければ幸いだ。ましてや、新聞に手を回して、おおげさな記事を書かせるとはけしからん。渋沢栄一何物ぞ。一橋の教授が数人辞職を申し出ているとのことだが、けっこう。とっとと、うせればいいんだ」
4月24日、学生は決起大会を開催、学生1500人は、①それぞれ学生の本文を守り➁団体として秩序ある行動をとること③授業を廃止しない限度内で朝野の名士を個人的に訪問すると決議しました。
さらに二日後、各クラス2人の委員を選び、委員は、①外部運動は先輩に一任➁輿論を巻き起こすために朝野の名士を招き大演説会を開くと決め、一般学生は、4-5人が一組となって、手分けして先輩、衆議院議員、貴族院議員、各界名士への訪問を始めた。
さらに同窓会も、「高商を改造して商科大学とし、これに専門部を付設することを期す」との決議をしました。頑迷な文相は、28日、高商商議員を招いて(渋沢男爵欠席)、「方針は決定、帝大教授会もそのように決定したので最早動かせない。高商の専攻部は売れ残った卒業生を収容し、しかも彼らは空理空論に走り、実業界では無用の長物と言われているので、私は専攻部は廃止するつもりである。」と放言します。
渋沢栄一商議員は、29日、文相を訪ねますが「方針決定」し「帝大教授会は、本日、帝大内に新設する商科大学へ、高商卒業生を無試験で入学させることに決定した」「異論をはさまれるのは誠に心外」と反論された。
5月1日、帝大の最高意思決定機関である評議会は、「商科大学を帝大法科大学内に併置する」と決議、正式に承認された。
実業界も、この状態を見かね、中枢の東京商業会議所の委員6人が文相を訪ね、この問題は実業界にも深い関係があり、問題解決に当たっては文部省と帝大の意見だけでなく、高商の評議員、実業家の意見も参酌して欲しいと強く押し入れています。
5月6日、文部省は省令をもって一橋の専攻部廃止を決定し告示した。学生たちは直ちに各級委員会を開催、<即退学をして抗議せよ>の声に沸き立ち、連日討論が行われましたが結論出ず、多数決によって決めることになりました。その結果は、10日、「総員退学」と決定しました。
総員1500人、全員肩を落として帰宅するが、その夜10時頃、火事が発生、一橋の空を火炎が染めた。学生の総退学決議と火事に文部省は驚き、学生への慰撫策を取り始める。5月11日、学生は、火事で校内へ入れないために隣の旧高等師範学校附属小学校に集まり、校舎内で各級からの36人の委員が集まって討論、当日をもって退学すると決議した。
校庭で待つ1500人の学生に対して、座長の徳野隆裕委員が廊下から涙をぬぐいながら、母校の最後を宣言した。徳野隆裕委員は、退学後の連絡方法、その他について懇切な注意をし、一同は、国歌と一橋会歌を斉唱、声は涙でつまり、相抱いて校庭に泣き伏した。最後に立ち上がった一同は、直立不動の姿勢で「大日本帝国万歳」「東京高等商業学校万歳」を三唱し、母校門前に戻って、再び母校の万歳を三唱した。
時、まさに午後二時、学生はマーキュリーの帽章を、帽子からむしりとり、母校正門前の地に怒りと悲しみを込めて、力一杯叩きつけて立ち去った。
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