「助けて」と言う力
てんたんです。
久しぶりの更新となりました。
時が経つのは早いもので気が付けば年度末ですね。
いかがお過ごしでしょうか。
今日は3月11日。未曽有の震災から丸10年が経過しました。
当時、私は小学6年生でした。
幸いなことに地元に被害はなかったのですが、あの日のことは今でも鮮明に覚えています。いつも通り「ただいま!」と学校から帰宅しても、普段の母親の声が聞こえないのです。「あれ、車はあったはずなんだけどな」と不思議に思いながらリビングに行くと、肩を震わせている母の姿と、その視線の先にある映像が飛び込んできました。
「こんなことが本当に、今、リアルタイムで起きているのか。」
気づいたら扉の前で、しばらく立ち尽くしていました。
あれから10年の月日が流れました。
先日も、福島県沖で未だ大きな余震があり、私の住む茨城県も震度5弱の揺れを観測しました。10年という期間は、人間基準で考えるととても長い年月ですが、46億歳の地球からするとほんの一瞬にすぎない。そんなことを思いながら、それでも10年間で変わったこと、変わらなかったことはなんだろうと考えなおした出来事でした。
震災を機に広まった「受援力」
この東日本大震災をきっかけに、ある一つの力が注目されました。それは、「受援力」です。
受援力とは文字通り「支援を受ける力」。すなわち、「助けてと言う力」です。
災害が発生すると、いち早く被災地に駆けつけ、被災地の人たちとともに、救援から復興・再建のために、さまざまな活動をする防災ボランティア。東日本大震災でも、発災直後の家の片付け、避難所や仮設住宅でのお手伝い、地域の復興支援・協力等、ボランティア活動が大きな役割を果たしています。その後の各地の災害でも、多くの人が防災ボランティア活動に参加し、救援や被災地の回復に貢献しています。こうした防災ボランティアの支援を生かすためには、被災地側がボランティアの支援に上手に寄り添う「受援力(じゅえんりょく)」が重要です。(政府広報オンラインより)
この力が注目された背景には、防災ボランティアによる支援と地域の受け入れとの間にある齟齬がありました。
震災により甚大な被害を受けた地域では、行政や企業も十分に緊急・応急対応を行うことが出来なかったとされています。そのため、全国各地からNPO団体やボランティアが被災地に向かうことになりました。
しかし、当時の被災地ではボランティアを受け入れる体制が整備されていませんでした。また、NPO団体、ボランティア側も、被災地に行けば何か手伝うことが必ずあるはずだと思い込んでしまい、「ここにいてもすることはない」と、結果としてNPO団体、ボランティアが受け入れられないというケースが多々見られました。
これではいかんと、教訓を踏まえて防災・減災の観点から提唱されたのが、この「受援力」です。災害等の緊急時に、支援を受け入れることが出来るように平時から体制を整備しよう、ということが、受援力の発出でした。
(宮本2015:81より筆者まとめ)
時が経ち、「受援力」はもっと広い意味で認知され始めました。論文ではないので詳細は別に譲りますが、例えば藤田・古川の研究では受援力を「社会からの援助を受け入れること」と定義し、「貧困問題において、この受援力こそ大切。いまの日本社会では「援けて」と声を挙げるためのハードルがいくつもある(p.197)」と、その必要性を述べています。
研究者によって受援力の定義が異なることには留意する必要がありますが、いずれにせよ、この受援力は今、教育・福祉分野において新たな概念として広まりつつある力と言えます。
隠れてしまうヤングケアラーの声
さて、ここまでざっくり受援力についてまとめてみましたが、なぜ今回この受援力を取り上げたのかと申しますと、ヤングケアラーへの支援の難しさに関連してきます。
先日、ヤングケアラー支援に関するシンポジウムがあり、僭越ながら参加させていただきました。その際に伺ったある話が今でも心のどこかに引っかかっています。それは、ケアラー自身が支援を求めないと福祉が介入することが出来ないという、ある行政の担当者のお話です。
この話を聞いて、ある種の無力感を抱きました。このままじゃ、支援が行き届かないと感じたのです。この無力感はどこからこみあげてきたのでしょうか。それは恐らく、ヤングケアラー支援の難しさの根本的な部分に着手出来ていないと感じたためだと思います。
ヤングケアラーの認知度は日に日に増していき、新聞やテレビ、ネットニュースなどで目や耳にする機会も増えました。そして先日、遂に首相もその支援の重要性を認め、国として支援を進めていくプロジェクトチームが形成されました。この流れはとても良い動きだと感じています。今まで日に当たらなかった問題が、やっと注目されたということに関しては、非常に意義のあることです。
しかし、私が問題だと感じていることは、むしろ今の今までこうした問題に日の目が当たらなかったという事実です。なぜ、ここまで周りの理解が遅れたのでしょうか。それは、前回の投稿にも書きましたが、ヤングケアラーの「声の挙げにくさ」に起因します。
ヤングケアラーには二重の社会的排除が取り巻かれています。一つはヤングであること、もう一つはケアラーであること。
ヤングであることの問題性は、やはり行動を起こすことが難しいという点にあります。つまり、大人の権力に屈してしまい、社会の「主人公」になることができないということです。グレタさんがあれほど取り上げられるのも「未成年なのに」社会に声をあげているからだと思います。その背景には、「未成年は社会活動なんて行うものじゃない」という潜在的な意識が働いているのではないでしょうか。ヤングであることで、声をあげるハードルは何メートルも高くなります。
ケアラーであることの問題性は、今まではケアされる側が「当事者」であったがために、ケアラー自身の問題は「しょうがない」と片付けられていたことにあります。例えば「兄弟の面倒を見るのは当たり前、家事をするのは当たり前。だって家族だから」という論が蔓延っています。これにより、ケアラーは声をあげることがなかなかできませんでした。
このヤングでありケアラーであるという点は、とても重要です。二重の社会的排除の対象となりうるヤングケアラーの声は隠れてしまうのです。
ヤングケアラー支援と受援力の視点
では、この背景を踏まえた上で、どのような支援を行えばいいのでしょうか。
現在進められているのは、「いかにしてヤングケアラーを見つけるか」です。
しかし、先程のシンポジウムに戻りますが、「ケアラー自身が助けを求めない限り、福祉が介入できない」という問題があります。つまり、大人はヤングケアラーを頑張って見つけようとはするものの、その後の支援をどうするかはヤングケアラー自身にかかっているのです。
そこで、自らが置かれた状況を客観視し、「これは普通ではない」と自覚し「助けて」と言う力、すなわち受援力がカギになるような気がします。
もちろん、これ一辺倒では「自己責任論」に帰結しかねません。支援される側がまず頑張れという具合では今までと何ら変わりませんし、何より、誰も幸せになりません。
そうではなく、周辺の環境を整備し、支援体制を整えることが前提の上で、なお「助けて」と言うことができるかということが重要ではないかということです。
例えば発達障害の場合も、まずは身近な人、あるいは自分自身が「あれ?」と気づくことから始まります。周りの目があり比較して初めて、支援が必要だと気づくのです。
しかし、家庭環境に関しては、なかなか友達などには打ち明けることが出来ません。また、家庭外の人も関与することが難しく、なかなか発見には至りません。そして無自覚のうちに、学校にいけないこと、友達と遊べないこと、自由に恋愛ができないことを当たり前だと思い込んでしまいます。
「ケアをすることは当たり前ではない」と、自らの環境に疑問を持つことが、ケア当事者にできる第一歩ではないでしょうか。
しかし、受援力をあげるにはどうすればいいのかという議論については重ねていく必要があると思います。前に述べた通り、「受援力がないから困るんだ」となってしまう事は、何としても避けなければなりません。しかし、周辺環境を整備するだけでなく、ケア当事者への働きかけも同じくらい大切だと思います。
昨今の動きで社会にその存在を伝えることはできた。次は何をすべきか。
これからも考え続ける必要があります。
参考文献
・宮本真巳(2015)「鍵概念 受援力に関連する諸問題について : 災害支援からセルフケア支援まで」, 『日本保健医療行動科学会雑誌』, 30(1), pp81-86.
・藤田孝典・古川雅子(2018)「「受援力」が貧困解決の鍵 : 誰もが「援けて」と言える社会を」, 『Voice』, 491, pp194-201.