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『多少』の縁のすすめ:淡泊な人間関係と「粋」の精神


こんにちは、アマチュア伝記作家のバイオグラファーです。


「袖振り合うも多生の縁」という言葉があります。

私はこの言葉を長らく勘違いしていて、

「袖振り合うも『多少』の縁」かと思ってた時期がありました。

つまり、道を歩いていてたまたま袖が触れ合う程度のちょっとしたことでも、それは縁なのだから『多少は』大切にしなさい、ということかと。


もちろん、正しくは、「往来で見知らぬ人と袖が触れ合う程度の触れ合いも、深い宿縁に基づくものだ。」という意味で、

転じて、人と人との縁を『とても』大切にしなさいという意味です。


調べていくとこれが結構奥深いもので、「多生」は「他生」と書く場合もあるようで、

日本人の輪廻転生の価値観で、生まれ変わる前の、前世などの過去の人生のことを指すようです。


輪廻転生を信じている人も信じていない人もいるでしょうが、

日本は伝統的に、先祖代々の墓がお寺にあるという方も多く、

特別深く信じ込んでいるわけではないがなんとなくてもほとんどの人が、

「生まれ変わったらこうなりたい」などと空想したことがあって、

その概念自体は骨身に沁みて分かっている人がほとんどでしょう。


仏教世界ではない海外、特にキリスト教圏の人にこれを説明をすると、

「東洋の神秘」でも見るような目で見られることもありますね。


少し道案内をしたり、落とし物を拾ったり、あるいは電車の席を譲ってあげて少し話しただけの人との関係を、

前世からの縁と思って大切にできれば、素敵なことだと思います。


しかし私はあえて、初めて会う人には『多生の縁』ではなく、『多少の縁』と思って接したいと日々思っています。


人との出会いは人生の中でも最も刺激が多いことの一つだと思います。

私は、自分と気が合いそうな人と出会うと、一気に舞い上がってしまって、

急速に距離を詰めていくことがよくありましたし、今でもたまにあります。

しかし、振り返ってみると、どうも自分が長く親しくする友人は、

最初から馬が合う人ばかりではありません。

むしろ最初はいけすかない人であることが多く、苦手だなと思いながら接しているうちにどういうわけか仲良くなった人が多いのです。


いえ、嫌いというわけではないのです。

いい人なのだろうけど、どういうわけか自分とテンポが合わない。

そういう人と遠巻きに接点を持っていると、

結果それが細く長い関係につながって、気が付くと親友になっていたりするのだろうなと、今になって思うのです。


ですから、だれかと何かの縁があったときに、まるで前世からの縁でもあるかのように大げさに親しくするのではなく、

むしろ、「多少の縁」と思って、ほどほどに仲良くするつもりで、

ちょっとよそよそしいくらいの方が、結果的に良い人間関係を構築できるような気がしています。


これは、ただの私個人の経験ですから、そうではないという人も多いでしょう。

しかし、中国の古典『荘子』にも「君子の交わりは淡きこと水の如し」とあり、

「君子(立派な大人)たるもの、水のように淡泊で、長く続く関係を目指しなさい」と言われているわけです。

またこの言葉は一橋大学の同門会の名前「如水会」の元にもなっているわけですから、

この精神は現代日本にも息づいていると言ってよいでしょう。

どうやら私の個人的な経験則も、まるっきり的外れというわけでもないようです。


私の好きな落語に「井戸の茶碗」という噺があります。

落語は要約してしまうとそのエッセンスが失われてしまうので、

あまり要約はしたくないのですが、少し端折ってストーリー全体の本当の大筋部分だけを言うと、

要するに、不当にお金を儲けたくない武士たちが、誠実に商売をしたい商人を介して、

ひょんなことから儲かってしまったお金をお互いに押し付け合い、

散々もめた末にみんながハッピーエンドになるというものです。


この話の魅力は、登場人物たちが一切お金に対する執着を持たず、むしろ自分が儲かることを嫌い、

その気持ちが強すぎて逆にもめてしまうという、

スカッとした気骨と愛らしいいじらしさがストーリー全体に満ちている点にあると思っています。


まさに、「粋」。

いよっ、イキだねと、聴くたびにいつも感じ入るのです。


しかしこれが成立するには重要な要素があります。

ストーリーの最後の方に至るまで、登場人物たちは自分たちの個人的な話はしないのです。

それどころか、お金を押し付けあっている武士同士は、ずっと商人を介してやり取りして、

噺の最後のオチまで会わないのです。


これは私見ですが、この関係が成立したのは、この武士同士が、

商人を介してやりとりするという縁を「多生の縁」と考えていきなり親しくするのではなく、

むしろ「多少の縁」くらいに思って少し相手と距離を置いて、

直接ではなく人を介してそっとお金を渡すことを美徳とした(つまり「粋」と思った)からではないかと思います。


もちろん、メタ的な視点で見れば、落語は庶民の文化であって、武士同士のやりとりだけではつまらないので、

そこに商人を介在させててんてこまいさせることで話を面白くするという効果もあるのでしょうけれど。


こういうわけで、人との出会いを「多生の縁」ではなく「多少の縁」と考える姿勢は、「粋」の精神につながってくると思うのです。



伝記作家というのは「多少の縁」をたくさんもてる、非常に恵まれた仕事だと思っています。

ご本人を緊張もさせないし詰め寄られている感じもさせない、

絶妙な距離感を保って、よい伝記を書ける伝記作家になりたいと、いつも思っています。

 

 

 

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