『無知の知』(2010年6月13日のブログ記事の転載)
皆さま、こんにちは。
だいぶ初夏の気候になってきた。
ニセアカシアの白い花が咲き乱れ、アカシアハチミツが滴るような、甘く爽やかな香りが漂う。
隣町の小坂町でこの時期に行われる「アカシア祭」は有名で、毎年大勢の観光客で賑わうそうだ。
先日、生まれて初めて「アカシアの花のてんぷら」を味わう機会があった。
実は、花以外の部分には毒素が含まれるらしく、花以外は食さないようだが、このてんぷら、実に美味しい。
塩で食べるのが良いらしい。
ほんのりと甘い香りが舌に残る絶品で、まさにこの時期だけの“旬”である。
このニセアカシア(一般にハチミツで使われるニセアカシアも『アカシア』と混同されてしまっているとのこと)、マメ科の樹木で、その種子がどこからか飛んできて畑に落ちると、数年で立派な木になってしまうため、休耕畑に茂りやすい。
一応、国が“外来生物”に属するために除去対象としているのもあり、畑を再開するときに、このニセアカシアの木を抜くわけだが、なかなか難儀する。
根を張って、脇から新しい株を出す上に、もちろん雑草などとは比べものにならないほどに根が固いのである。
今年は、今後耕起する予定の2ヶ所の休耕畑から、数本のニセアカシアの木を抜いた。
とはいえ、これもいち生命であるため、心苦しい思いは残るが…。
ソクラテスの有名な「無知の知」というエピソードがある。
今回はそれを引用してみたい。
この「無知の知」、多くの人が「自分の無知を自覚している」程度に捉えるようだ。
以前の職場では、二人の別々の先輩から、それぞれ「自分は、自分がいかに無知な存在であるか知っているんだ」というような事を、謙虚さの戒めとして、仰って頂いた思い出がある。
それぞれの先輩、実は相性があまり良くなく、常に気まずい空気を醸し出しておられたので、示し合わせて使ったり、どちらかが影響を受けて“受け売り”したわけでもなさそうだ。
それだけ、この言葉が一人歩きし、多くの場面で用いられているという事なのだろう。
近頃、福島原子力発電所の収束を見ない現状に、ますます「反原発」の声が高まっているように見受けられる。
しかし、筆者は「エコ」や環境を考える上で、原子力発電所との付き合い方は非常に重要だと考えている。
エコにおいて、世界を牽引する欧州各国での原発の位置づけが様々で興味深い。
「原発大国」であるフランスと、チェルノブイリ原発事故を受けて、ほぼ国内「脱原発」一色というドイツやスイスなど、“欧州連合”の理念の下に統一へ向かわんとする国々の意図がそれぞれ異なるので、やはり扱いが難しい問題なのだろう。
あまりにも重大な事故が起きてしまったがために、原発アレルギー反応とも言える拒絶が、ますます社会的に強みを帯びる事となったのも、当然の帰結であり、十分に理解できる。
しかし、直接の被害者でない方々からの、過敏ともいえる拒否反応に対しては、筆者なりのそのアンチテーゼとしての意味も込め、感じるところがあり、以下に綴りたいと思う。
まず、予め述べておく必要があるが、筆者自身は原発推進派と反原発論者のそのどちらでもない。
原発に纏わる様々な問題がある中で、ヒステリックに世の中が反応し、それをまるで腫れ物に触れるような、及び腰の政府や行政の対応がなされること(地域の代表者が、まるで住民の総意であるかのように「原発反対」を改めて表明する事)、報道が社会正義を掲げつつも事態の側面を一面的に伝えるのみという、これらの社会動向に一抹の不安を感じたことが、今回の意図である。
今回の福島原発事故では、歴史的にも甚大な被害が生じてしまった。
どれほど安全性を追求しても、燃料として放射能を持つ物質を扱うその特性上、取扱い如何によっては原子力エネルギーは大変危険である、という事実にはなんら変わりは無い。
しかし、今回の事故原因について考えれば、例えば、それが自動車の運転手にあるのか、自動車そのものの整備上不具合なのか、それとも設計自体に瑕疵があったのか、あるいは道路整備上の要因であるのか、交通法規に不足があったのか、あるいはそもそも不測の事態、すなわちまさに「想定外」であったのか。
これら原因を突き止めることなく、ただ真っ向から否定するということは、(原子力に限らず、何事においてもそうであるが)、非常に大きな誤謬を含んでおり、そうした感情で社会が動いてゆく事は、ある意味において、これもまた原発事故同様に危険であると筆者は感じている。
筆者が感じた問題点は以下にまとめられる。
①今回の事故原因は、原発そのものではなく、冷却装置の故障により、引き起こされたこと。
②“見えない”存在が対象である、「原子力発電」の安全意識の欠如が、今回も大変重篤な課題として残ったこと。
③何が(原発に関わらず)どのように危険で、どのように対処してゆくべきか、感情的に拒否するのではなく、理性的に、それこそ截然たる態度が望まれる。
原子力エネルギーは、そのエネルギー量の膨大さから、事故を起こした際にも最悪の事態を引き起こすため、それだけに、巨大なリスクとメリットがまさに表裏一体と言える。
これまで、日本の原子力技術は世界的にも認められ、「安全神話」なる評価さえもなされてきた。
完全に揺らいでしまった感のあるその“神話”という評価も、これまで国内の各原発が安全に運用されてきた実績に鑑みる必要がある。
筆者の見解は以下の通りになる。
①国民全員が理解できる説明が果たせるまで、徹底的に今回の事故原因を究明し、十二分の安全対策を講じた上で、浜岡などの発電所の復旧・回復を果たすべき
②同時進行で、早急に、より安全で環境負荷の低いエネルギー開発を推進すべき
③世界的にも注目されている「第二の復興」とも言える日本の復活を、再高度成長を目標に掲げることで果たすべき
政府のアナウンスのミスにより、日本は多くの信頼を世界から失った。
特に農産物においては、周辺国より完全にシャットアウトされるという惨憺たる始末を招き、この事だけでも内閣の責任は決して小さくない。
今、国民に求められることは、自分が知らない領域において頭ごなしに拒否する姿勢ではなく、テレビ報道やネット、ひいては専門書などから、情報を得、整理し、落ち着いた判断をなす事だと思う。
“お上”の責任ばかりを追及するのではなく、その環境の中で「自分にできること」を着実に、焦らずに果たしてゆく事である。
そして不安感を煽るような情報に踊らされることなく、理性的に対応することである。
「コンクリートから人へ」という理念を前首相(2011年6月当時)が掲げたが、エコや環境保全、安全は、そればかりをつきつめることは、常に雨を心配して長傘を毎日持って歩くという態度でもあり、言わば「原始帰り」のような世の中を招く事になりかねない。
安全や環境保全は、様々な経済活動に付随し、且つ、絶対に損なわずに果たさねばならない事柄、言わば車の両輪であり、「それのみを果たせば良い」というような考えは判断停止であり、そうした思考放棄のような世界にはなって欲しくない。
逸話に残る「無知の知」では、哲学者ソクラテスが自分の無知を知るために、様々な“知者”とされる人々と問答を行う。
その中で、「私は、いかに無知であるかを把握しており、それが他の方々と違う点であった」と語り、それが「無知の知」という言葉となって残ったとされる。
わからない事、理解が及ばないことを全て、一面的にパニックを起こすのではなく、冷静に、賛否両論、テクニカルな解説などを通して、信用できると思われる学者の意見を取り入れつつ、冷静な判定を下してゆく事を世の中に望みたい。
特に、放射性物質など、目に見えない敵と戦うには、兎にも角にも徒に騒ぎ立てず、冷静に分析すること(自分なりにでも)が何においても肝要である。
まして、国や地域のトップたる者が、評価や外聞を気にして個人的感情からヒステリックを起こしていてはどうしようもない。
第二次大戦での被爆国として、原子力発電に頼るエネルギー政策を選択してきた国家として、他の原発を抱える国々に対して、そして原発を受け入れ、結果、今回の震災で二次災害の被害を蒙ってしまった避難地域住民の方々に対しての責任を持って、現在稼動中の原発を、確実に安全で高い蓋然性の耐震性能を持った設備にしていかなくてはならない。
原発とどう付き合うかということを明確にしなくてはならない。
さて、筆者の「無知の知」解釈は、こうである。
ソクラテスほどの知の巨人が「自分は無知だ」程度の事を語ったわけではあるまい。
それは、「人々が、いかに世界について、イデア(実相)について無知であるか。いかに知りえていない領域があるか、私はそれを“知っている”。」という意味であって、すなわち、実は「全てにおいて知り得た(世界を悟った)」という裏返しの表現であり、世人への皮肉も込められた言葉であると解釈すべきと考えるのである。
※イデア論について、実際に語ったのはプラトンで、アリストテレスが纏めたものであるとされるが、当然、プラトンの師であるソクラテスも理解していたものとしてここでは扱った。
この記事は2011年6月13日にAmebaブログにて投稿したものを加筆修正したもので、筆者の農業観を表すと考えた記事を、この度いくつか掘り起こす一環で再投稿するものです。