『梅雨空に』(2011年6月27日の記事)
皆さま、今晩は。
先週、ようやく秋田県も梅雨入りが発表され、大地が慈雨に潤いはじめた。
沖縄県では、例年より早い入梅、そして出梅だったのだとか。
1週間ほとんどまったく雨が降らなかったため、毎日、移植したばかりの苗を心配し、畑を巡る。
今、テレビや新聞で取り沙汰されていることは、菅首相(2011年6月当時)が退陣を表明(?)し、その退陣時期について、また、その後の政権運営についてで、もっぱら多くのメディアで“政局”マターとして取り上げているように見受けられる。
街頭インタビューに答える一般市民の方々も、多くが「こんな時こそ、一丸となって…」という意見を述べられていたように思う。
しかし、それはあまりに飛躍した話しで、大災害の前に、国家の首相として、菅首相が発揮したのはいかなるリーダーシップであったろうかと思う。
選手たちのフィールドに踏み入り、「お前たちの動きは指示と違う」というようなことを言って、現場を混乱させるような監督では、とてもではないがチームを采配することなどできまい。
そもそも、指示(比喩としての表現だが)が二転三転しするような指揮官の下では、どのように動いてよいのかさえ部下は見失い、“一丸となって”などとはおよそ遠い結果を招くものだと言えるはずだ。
さらに「この法案を通せば引き際がつく」であるとか、「勇退の花を添える」というような極めて個人的な達成感でもって、まるでそれが自身の使命であるかのごとく表現をし、自身のリーダーシップの欠如を補おうとするのでは、とんだ筋違いであり話しのすり替えですらある。
首相の椅子に固執するような様は、吝嗇(りんしょく)そのものだろう。
そして、それを単なる“党利党略の絡んだ政局沙汰”として片付けて良い話しでは無いはずだ。
先日、過去の自民党政権時代の農政に振り回された「大潟村」の米農家の方を扱ったドキュメント番組を見た。
いわゆる古き自民党の利権に纏わる政治を批判的に扱ったもので、「青田刈り」に断固として反対を貫いた農家の心情に、筆者は心底同情するものがあった。
しかし、それが政治の全てではなく、
短絡的に「民主党ではダメだ」
「だから自民党しかない」
は=(イコール)ではないはずだ。
どの党だから、ではなく、この事態において、リーダーさえも適材適所、場面場面で適職者を選び出すべきだ。
それが誰か、ということは筆者にもわからない。
ただ、こういうリーダー像が望まれる、ということはイメージできるし、多くの国民が待ち望む将来のあるべきリーダー像をメディア各社、記者の方々は精査し、伝えることで醸成していかなくてはなるまい。
報道各社の持論や理念を国民に伝えることばかりが報道ではなく、国民が望むことを掘り起こす作業こそ“報道”に望まれることだとも思う。
菅首相には、なぜ、今の段階で退陣の風向きとなっているのか、しっかり内省し、一方、自民党にあっても、安易に増税論に走らず、過去を反省してもらいたい。
そして、報道各社においては、それこそ安直な政局沙汰で済ませてしまおうとせず、なぜ、国民が望むような“復興のための復興”が進まないのか、冷静に分析し、誠実に伝えて欲しい。
このような事態に際し、義憤しないペンの正義に梅雨空の雲のように、陰鬱とした世相に、腹ふくるる思いのまま綴った。
※この記事は、2011年6月27日にAmebaブログにて投稿した記事を加筆修正したもので、筆者の農業観の一部を表すものとして、再投稿することにしたものです。