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「彼岸花の咲く島」と「根の島」

 利己的で暴力的な男性中心の社会がいずれは滅びる、そう考えることは可能だ。本当に、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナとレバノンのイラン、ミャンマー、スーダン、実際の紛争地域がいくらでもある。のみならず、先進国とよばれる国ですら、米国がそうであるように分断されている。
 だから、近未来として男性によって滅ぼされた文明を女性がやり直す、そういったストーリーを描く文学作品がある。そこには、フェミニズムの文脈において、男性批判、もしくは男性性批判がなされている。でも、それがどのような批判なのか、それはきちんと見ておきたいことだ。
 
 ここで取り上げるのは、李琴峰の『彼岸花が咲く島』と伊東麻紀の『根の島』である。この2つを取り上げて比較するのは、李にとっても伊東にとっても、とあるいきさつがあり、不本意かもしれない。でも、そのことは理解した上で、あえて取り上げているものでもある。
 以下、ネタバレを含むので注意。
 
 伊東麻紀の『根の島』は、男性が生まれなくなった未来が舞台である。とはいえ、男性がいないと子孫が残せないので、多くの地方都市国家は、男性(メイル)を生み出すことができる大きな都市国家から男性の子供を略奪し、精液採取用として飼っている。種牛の人間版だ。
 社会を構成する性は、女性(フェム)と無生殖能力者(スュード)で構成されている。主人公の鶫はスュードで、メイルを略奪する職業軍人だ。
 ある日、鶫は老化して精子の採取が難しくなったメイルを殺処分する命令を受けるが、鶫は老化(といってもまだ20代、メイルの老化は早い)したメイルを殺すことができず、そのメイルが生まれた場所へ帰還させようとして、逃亡する。
 その途中で、スュードだけの村に出会ったりするなどをはさみ、メイルが生まれた都市国家にたどりつく。そこで知らされたのは、なぜ男性が生まれなくなったのか、どうやって男性を生み出しているのか、そして新たな男性をつくろうとしているのか、といったことだ。
 その後、メイルの山賊たちに拉致され、そこでは拉致されたフェムが山賊のお頭に独占されていたり、といった場面も登場する。けれども、この事件から救い出されてわかったことは、開発されたワクチンを使うことで、スュードが生殖可能な男性になることができる、ということだった。鶫はその後、男性になることに決める。
 
 この作品は、ジェンダーに関していくつかのことを示している。
 まず、フェムに対してスュードは差別されているということだ。生殖能力がないということで、人権が制限されているといってもいい。したがって、フェムとスュードの恋愛はタブーだし、この作品では冒頭にそのことが描かれている。また、差別されているゆえに、軍人となることで社会的地位を引き上げていることも指摘できる。
 スュードも基本的には女性であり、したがってセクシュアリティの面ではすべてレズビアンである。
 フェムは比較的若いうちから子供を作ることが奨励されている。だからこそ、生殖能力を持たないスュードは差別されているのだが、それは女王アリと働きアリのような関係と言えばいいだろうか。けれども、この作品のテーマの1つは、子どもを産めないことが罪なのか、ということへの問いでもある。
 メイルは等しく暴力的な存在であるように描かれている。それゆえに、種牛のように管理されており、社会の構成員となることはない。ただし、例外として逃走したメイルのグループが描かれるが、それもまた暴力的な集団として描かれ、暴力による支配がその社会を形作っている。
 そして、過去、男性が減少していくことによって、社会における男性支配がなくなり、現在の社会になったことが示される。
 この作品の1つの帰結は、スュードがワクチンにより男性としての生殖機能を得ることで、新たな社会がつくられる可能性が示されるというものだ。
 
 この作品では徹底して暴力的で粗野な男性と男性性が批判されており、オルタナティブなものとして、レズビアニズムにもつながるシスターフッド(女同士の絆)が提示されている。その一方で、生殖能力を持たない存在に対する差別は、スュードが生殖能力を獲得することによって回避されている。
 逆に言えば、この作品においてセクシュアリティとしての男性とジェンダーとしての男性性が同一視された上で、批判されていることと、生殖能力に対する人権の問題が最後に棚上げされているという点で、批判されるのではないだろうか。
 男性と男性性は別のものだし、だから一方的に男性を排除していくのは、考え方としてはどうかとは思う。また、個人が基本的人権を持つにあたって、生殖能力の有無は関係ないし、だからスュードが生殖能力を持つことで社会的な権利を獲得するというのは、それは違うのではないかと思う。というか、生殖能力を持たないことに対する差別という課題に対する結論が回避されている。
 
 もちろんこれは小説だし、ストーリーの展開としてこうなることを著者が選択したものであり、著者の思想を反映させたものだとは限らない。それに実際、ストーリーはよく考えて構成されていて、楽しく読むことができた。ロマンスもそれなりに展開していて、ちょっとしたアクセントにもなっている。メイルが理不尽なほどに救われないことを除けば、面白かった。
 でも、そうであったとしても、小説として提示された世界観に対しては、批判的に考える。
 
 『彼岸花が咲く島』もまた、近未来の話だ。
 主人公の少女、宇実(ウミ)は島の浜辺に打ち上げられ、この島に住む少女、游娜(ヨナ)に助けられる。
 この島の社会を管理しているのは、ノロとよばれ、祭祀をつかさどる女性の集団だ。人間の歴史はこのノロの間でしか伝えられず、島の男性は歴史を知ることはない。でも、游娜の幼馴染の少年、拓慈はノロになりたいと考えるし、歴史も知りたいと思っている。だから游娜たちに対し、ノロになって歴史を知ったら教えて欲しいと約束させる。
 宇実は游娜とともにノロになるために学び、ノロになることで、人間の歴史を知る。それは、この島の外側の、例えばニホンが男性に支配された暴力的な社会であり、島をそういった社会にしないために、歴史を学ぶことから男性を遠ざけているということだった。
 また、宇実が浜辺に打ち上げられた理由というのは、かつて住んでいたところで女性を愛してしまったことによる罰を受け、海洋に投棄され、奇跡的に助かったというものだった。
 宇実は男性に歴史を教えないことが正しい事なのかどうか、悩む。だが、長老である大ノロもまた、それが正しい事かどうかわからないと語る。だから、結論を宇実たちにゆだねる。
 
 文明が崩壊した原因として男性性に求めるということは、『根の島』に共通している。しかし、『彼岸花が咲く島』においては男性性と男性はきちんと分けられている。そうした設定があって、拓慈という少年が設定されている。男性が常に暴力的で支配的な存在とは限らないし、そうであることに希望を見出そうとしている。
 この作品における恋愛関係は、宇実と游娜との間にあり、拓慈は、レズビアンカップルを支える男性、という役割を担うのだけれど、それもまたオルタナティブな家族として提示される。
 作品中では、あいかわらず暴力的なニホンが存在し、その脅威は無くなっていないのだけれども、そうだとしても、男性性を排除した島の社会の将来に、希望を描くことができる。
 
 『根の島』と『彼岸花が咲く島』の大きな違いは、男性と男性性を区別しているかどうかだといえる。だから、一方が男性とともに男性性を排除することに対し、他方では男性性のみを批判するという帰結となる。
 
 もう一つ指摘しておきたいのは、『彼岸花が咲く島』が小説としてちょっとバランスが悪い構成になっていると感じる点だ。後半になってようやく、ノロの秘密が明らかにされていくが、前半はそこにはフォーカスされていない。むしろ、「ニホン語」や「女語」、「うつくしいひのもとことば」など、言葉にあり方が前面に出ている。言葉そのものに思想や世界が反映されているというのは、何だかソシュールの言語学みたいだけれど、そのことによって、この島が「ひのもと」とは異なる世界であることが示される。
 それというのは、ジェンダーがセクシュアリティによるものだけではないことにもつながっている。この島が、簡単に武力によって制圧されかねない小さな島、ということにもつながっている。ジェンダーにおける女性性と植民地がつながっている、ともいえるだろう。
 これに対し、『根の島』では、生殖可能な男性を独占することで世界に影響を与える都市が中心となっている。そこには、資本主義をなお受け入れている構造が示されているといってもいいだろう。結局のところ、男性というジェンダーの一部をフェムが引き受けているということも指摘できるのではないか。帰結としては、暴力的な男性性を排除し、未来につなげている、ということになるのだろう。
 
 現実の社会では、ジェンダーもセクシュアリティもグラディエーションがあり、男性と男性性が一致しているわけではない。そうではあっても、確かに男性性が男性を規定してしまうということはある。
 その上でなお、現代においては、ジェンダーとセクシュアリティについて、もう少しちがった視点でとらえることが必要ではないか、とも思う。
 SFということでいえば、ずっと以前にジョアンナ・ラスが『フィーメールマン』を書き、アーシュラ・K・ル=グゥインが『闇の左手』を書き、ケイト・ウィルヘルムが『鳥の歌いまは絶え』を書いた、そのときからずっと時間がたっている。ル=グゥインはその後、ジェンダーとセクシュアリティについて、『帰還』などに示されるように、ずっとアップデートしてきた。
 
 同じ近未来、文明が衰退した社会を描いた小説として、アンジェラ・カーターの『英雄と悪党の狭間で』がある。
 主人公の少女マリアンはまだ書籍などが残る共同体で暮らしていたものの、蛮族によって兄と母を失い、書籍を管理していた父親の死をきっかけに、共同体を去る。そこで蛮族の若者ジュエルと出会う。ここまで書くとボーイ・ミーツ・ガールのような展開だが、そして実際にマリアンとジュエルは結婚はするものの、最初に結ばれるシーンはジュエルがマリアンを強姦する形だ。しかし、二人は決定的に反目するわけではなく、ジュエルはマリアンにとって生きる手段でもあり、だからこそ自分が所有するものでもある。
 ここには、ジェンダーに還元しきれない暴力性と依存性があり、セクシュアリティがあり、欲望がある。そんな簡単にジェンダーとセクシュアリティを同一視し、あるいは重ね合わせるような単純さは、カーターは持ち合わせてはいない。そのことは、後に『新しいイヴの受難』という形で再度書かれる。あるいは、「シンデレラ」や「青ひげ」をアップデートされたジェンダーによって再話する。
 
 カーターの50年前の小説があり、その先に何を見出すのか。『根の島』はむしろ過去に戻ってしまった気がするし、『彼岸花が咲く島』はもっと先に進めると思う。
 そして、『根の島』の男性嫌悪・男性排除よりは、『彼岸花の咲く島』におけるオルタナティブな男性性の方が現在に即していると思う。たとえ、いまだに男性性が男性を規定する社会にあったとしても。

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