日記という遺書
初めましての方は、はじめまして。うれいこです。
今回の日記で、3本目になります。
こうやって、日記を書いている時も、寿命は削れています。
細胞単位で死んでゆきます。
時間単位で死んでゆきます。
年単位で死んでゆきます。
宇宙単位で死んでゆきます。
それを実感しにくいのが、現実です。
そうですね、実感する時は
自殺する時
事故に遭う時
闘病する時
天寿を全うする時
だと思います。
その中、私たちは、SNSやメッセージアプリ、手紙を通して様々な言葉を交わしています。
買わなければいけないお菓子。
買いたい文房具。
あの子に告白する日。
なんかあった日。など、
文章に自信がなくても、単語として残していっています。
さて、私たちが、その寿命が削れて、死んでしまった時、
その下らない単語や文章が遺書になることがあります。
そんな遺書を笑ってくれたり、泣いてくれたりしてくれる人が、一番の遺書の在り方だと思います。
何かと、「生きた証を残す」というキャッチフレーズが世間では注目を浴びていますが、別に大層な行動をしなくても、
こうした日頃何をあったかを遺すだけでも、
十分に、生きた証を残しています。
私たちは、意外と遠回りをして生きている。
そんなことを考えて、普通に食って遊んで寝る。
それを、SNSにつぶやく。
これこそが、日記という遺書。
我々が、残すべき証なのです。
今日も、うれいこの脳を覗きに来てくれて、ありがとうございます。いつでも、覗きに来てくださいね。
まってます。