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ヒマラヤに風を見に行った話

 1989年5月の大半を僕たち夫婦は、ヒマラヤの麓、ネパールで過ごした。

 5月初めの月曜日に、ネパールに行くことを決め、水曜日に成田を飛び立ち、木曜日をバンコクで過ごし、金曜日には、ヒマラヤの山々が連なる上空から、雲の合間に見え隠れするカトマンドゥの赤い煉瓦色した家並を夫婦で眺めていた。『風の谷のナウシカ』というアニメの中に出てくる谷間の村のような、どことなくたよりなく、それでいて懐かしい風景が、僕たちの眼下、風に流れる雲の切れ目切れ目に、のぞいていた。

 ひと月前まで、僕は、仕事に追われ、目の回るような忙しい生活をしていた。

 徹夜を繰り返していたその頃、何故だかいつも頭の中に、ゆったりと回る大きな風車があった。それは、17歳のときに、神田淡路町の古本屋で見た100年ほど前のドン・キホーテの大型本に載っていた挿絵にあったものだった。その場面で、ドン・キホーテは、時代遅れの中世の騎士として旧式に完全武装し、大巨人と思い込んで大きな風車に向かって馬上から勇ましく戦いを挑んでいた。

 仕事を離れ、次の仕事までの期限付きの自由時間を手に入れたときにも、大きな風車は、まだ、僕の中でゆったりとくるくる回っていた。大きな風車というものを実際にどこかに見に行きたいと思ってはいるのだが、本の中にあったなだらかな起伏のあるスペインの草原に立っている風車を見たいわけではなかった。大きな風車を見てみたいという、説明しにくくややこしい漠然とした気持ちが僕の奥で疼いていた。

 そんなある日の夕刻、高台に建つマンションの部屋から、僕は、空をおおい激しく降る雨を見るともなしに眺めていた。雨粒たちは、時折吹く突風に煽られ、右に左に斜めになったり、横になったり、実に気ままに、ダンスでもするようにビルが群生する東京の上空で遊んでいた。それらをじっと見ているうちに、僕は、今この風景で自分が魅せられているものは、雨ではなく、それらを変幻自在に運動させているもの、それ自体では、見えにくい「風」であることに気が付いた。同時に、僕が見たいものが、風車ではなかったことにも。

 僕は、名称のついた色々な種類の風ではなく、 これが風なんだという、風そのもの、純粋な風を見たくなっていた。 風に吹かれたい、風になりたいという欲望の対象になっている「風」を見たくなっていた。

 そして、僕は、妻にこのことを話し、ふたりでネパールへやってきた。

 ネパールは、雨季に入りかけていた。目の前に広がるヒマラヤの山々は、世界中の雲という雲を集め、いっとき人間の目から隠れようとしているみたいだった。

 それでも、僕達は、3日目の朝、カトマンドゥから遠く離れた避暑地の宿から、アンナプルナ山系へ向かう途中にある山奥の村へ出発した。 ジープが走れる道はほどなく終わり、歩いてゆくしかない山道に分け入り、まる1日掛けて登ってゆくと、遥かに高い山々の合間にある見晴らしの良い尾根づたいの先に、人家が点在し、村を成している一画があった。そこからは、連続した高波のように押し寄せる高い山々と空しか見えなかった。

 村に到着した夕方すぎ、村の奥の細い道から、突然、賑やかな鐘や太鼓の音が聞こえだし、何ごとかと思っていると、素朴な太鼓や笛を鳴らし声をたてている村人たちが、列になって現れた。面白そうなので、彼らの後を付いてゆくと村を抜け、尾根づたいの道をどんどん進み、端の方の崖っぷちまで、行進していった。
 
 ひとりの村人が亡くなったので、火葬にするところだという。50人にも満たない村人が輪になって囲む中、シャーマンらしき宗教者によって素朴ながら厳かな雰囲気の葬儀が行われ、遺体は小さな山のように積まれた薪のなかに埋められ、静かに火をかけられた。

 僕たちのいる尾根の頭上は曇り空だったが、深い深い谷間を挟んだ隣の尾根では、黒い雨雲が掛り激しい夕立が降っている様子が見て取れ、激しい雨音はこちらの尾根にも轟いていた。隣りの尾根の豪雨の影響か、ときおり、とても涼しい風が火葬を見守る人達の間を力強くサァーと抜けて行く。

  ただ、不思議なことに、死者を弔う薪の煙は、横殴りの強風の影響をうけず、曇り空に真っ直ぐと上って行くのだった。暫くして、村人たちと宿屋へ戻り、遠くから眺めると、夕闇迫る墨っぽい風景の中を先程の煙がひとすじ、天と地を結ぶ一本の真っ白な糸のようにあった。天空かなたの雲のなかにくるくる回る糸巻き機があって、煙となった人を糸のように空に巻き戻しているみたいだった。

 夜、凄まじい豪雨が村を包み、宿屋は、大きな滝の下にでもあるかのように雨にうたれた。

 翌朝、雨はすっかりあがり、僕は妻と、まだ暗いうちに起き出して、尾根の中でもやや高く小山のようになっている場所に向かった。空に雲はなく、 少し明るくなってきた広い空と、まだ黒い影のままの山々とが、少しづつ見分けられるようになってきた。

 すっかり、晴れ渡っている。

 ふたりで、小山の頂上に腰を落ち着け、これから始まる飛びっきりの夜明けのドラマ、天高くそびえるヒマラヤの山々の稜線が太陽の光を浴びて輝きだし、山々がしだいにその姿を僕たちを大きく囲むように包み込むように明らかにしてゆく素晴らしい光景に備えた。

 僕は、ヒマラヤの神々しい山々が起き出し、山々と空の間に宇宙を一瞬見せてくれる夜明けの薄明の中で、昨日の夜に見た、死んだ人間を空に巻き戻していた糸巻き機について考えていた。

 あの糸巻き機をくるくる動かしていたのは、僕が見たかった風、僕達をここまで呼んだ風、名付けようもないくらい純粋な風だろうと、思った。そして、その風を受け止め、糸巻き機にゆったりと 動力を送っているのは、それこそ大きな風車だろう、と。


(1990.09. EXPLICIT ESSAY掲載)

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