白川静先生から夫婦について教えていただいた
2006年10月30日に白川静先生が逝去されたことを11月2日に知り、1988年の晩秋に先生のご自宅を訪問したことを思い出した。
京都から先生へお電話して予定通り伺うことをご連絡して、私鉄の最寄の駅で降り改札口を出ると、迎えにいらしている先生の姿が目に飛び込んできて、いきなり恐縮してしまった。
駅からご自宅までの道すがら、「ここは京都のウラ鬼門にあたるところ・・・」とそこに居を構えていらっしゃることを楽しんでいるような口ぶりで話してくださった。確かに、先生が「ウラ鬼門」に住んでいることは、アカデミックな世界から距離を置かれて仕事を重ねてきた先生にとてもふさわしく感じた。
ご自宅については、その数年前にカメラマンの佐々木光さんからお聞きしたことがあった。佐々木さんが工作舎で雑誌「遊」の編集部にいたころに、ある夜白川先生の原稿を読んでいた編集長の松岡正剛氏が突然これから白川先生の写真を撮りに行こうと言い出し、徹夜で東京から向かい、明け方に先生のご自宅に到着し、カメラを書籍で満杯のご自宅の書斎に設置できず、庭から窓越しに書斎で研究に向かっているカットを撮り、何とか締め切りに間に合わせたという話だった。
私は「遊」の熱心な愛読者はなかったが、外から書斎の先生の厳しい横顔を捉えたこの写真の記憶があり(それだけ印象的な出来だった)このエピソードが頭に焼き付いていた。
ご自宅は、ここで漢字に関するあの衝撃的な研究を継続して行った強靭な精神の持ち主の碩学が住んでいるとは思われないぐらいに実に簡素な普通の戸建てだった。
この住居の佇まいは、先生のお人柄でもあった。
応接間にご案内いただき、奥様がご用事で留守なさっているとおっしゃりながら、そこにすでに用意されていたお茶を煎れ、カステラを切ってくださった。
それから、お願いしている原稿のことやら研究のことやらを長い時間にわたって先生とお話をしたような気もするし、とても短かったような気もしている。
先生のお話のなかで、ふたつのことが私の心に深く残り、その後の自分の生き方を考えるときには、必ず思い出すこととなった。
私の文章力で文にすることができるかどうか・・・
ひとつは、「学問」というか信念をもって向かわれた研究活動についての質問に答えていただいたことで、
研究そのものは、孤独に地味にこつこつとおこなってゆく、狭い山道をひとりで歩いてゆくようなものだが、その道が峠道であることを確信していればやがて先で風景がさぁーと開けることがわかっているのだから、つらいということはなく、また、その峠にたどり着いて景色が開けたときはもう何とも嬉しく楽しいものです。
そして、「研究(学問とおっしゃったかもしれない)とは、そういうものです。」と加えられた。
もうひとつは、研究についての質問から、先生の一日の過ごし方についての話題になり、お聞きしたことで、夕食後から寝るまでは、奥様の隣に腰掛けられ過ごされるというお話だった。奥様とご一緒にテレビをごらんになるときもあるし、先生は本を読まれていることもあるらしかったが、夜の闇に覆われた京都のウラ鬼門の土地で小さな明かりを灯したささやかな空間にご夫婦がいすに並んで座わられて過ごしてらっしゃる光景が浮かび、想像もしていなかったその光景に深く感動してしまった。
私は不躾にもなぜ夕食後の時間を奥様の隣で過ごされるのですか?といったことをお聞きしてしまった。
非常に簡潔に「夫婦ですから、妻のそばにいないと・・・」といったことを照れるというよりは何かくすぐったいような不思議なお顔で答えられたのだった。
2006.11.06記