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世は大正、芝神明前、櫻乱れ、紅灯ともるころ 【東京は芝神明、浜松町あたりのものがたり】

ーー 神明という所はそのころ東京で唯一の江戸情緒をたたえた場所だった。神明大神宮をとり巻いてその一郭には待合や芸者屋が集まり、また一部には矢場と称する銘酒店街があった。 め組のけんかの書割に出て来る呉服屋だの、太太餅の店などがあった。 浅草ほど大規模ではないがそれだけに、いっそう濃厚な情緒をただよわせていた。

大正半ばの芝神明について、作家の村松梢風は、昭和31年に日本経済新聞に連載された『私の履歴書』のなかでこう語っている。

村松梢風という作家は、令和の世の中では、忘れられた作家のひとりになってしまっており、直木賞作家でプロレス評論家として有名な村松友視の祖父と言った方がわかりやすいかもしれないが、大正後期から戦後昭和36年に亡くなるまで、多くの著作を残しており、市井の本好きを喜ばせた功績は大きく、出版史のなかでは欠かせない作家といえる。

小説では、自らの経験と見聞を活かした複数の女性譚である『女経』や歌舞伎の2代目尾上菊之助を描いて、溝口健二の映画化で話題になった『残菊物語』が有名であり、私の世代の絵画好きの連中には、日本の画人47人の生涯と作品を考証的な筆致で描いた『本朝画人伝』全5巻に魅了されたというか、お世話になった人は少なからずいたのではないだろうか。

村松梢風は、1889年〈明治22年〉に静岡県周智郡飯田村(現:森町)に生まれ、静岡県立静岡中学校を卒業後、慶応義塾大学理財科に入学したが、父の急死により、静岡に戻り、教員となった。「徴兵検査が終わった翌年二十二歳で結婚した。そしてその翌年は長男が生まれた。私は農村の生活をするように運命づけられているのかと初めは観念していたが、やがてそれに堪え切れなくなって東京へ飛び出した私は初め文学を志し」(『私の履歴書』)、慶応義塾大学文学部へ入学した。

この二度目の上京、慶応大学再入学の際に、芝神明前の宿屋に1年ほど下宿した。
この宿屋(旅館ともある)に下宿するというのは、今ならば、ホテル住まいをすることになるのだろうか。田舎の素封家の出身らしい贅沢な一人暮らしなのか、当時にはよくあった暮らしなのか、よくわからない。

「何よりもいなか者から都会人にならなくてはならなかった」梢風が、江戸文化、特に花街や廓の名残を求めて、身をもって東京の花街や遊興地を調査探究するにあたって、下宿先として、かねてから目をつけていたのが、芝神明前であった、ということだ。
三田の慶応大学に近く、地の利もあったろうし、浅草を濃密に圧縮したような盛り場としての魅力もあったのだろう。

故郷に妻子を残し、文学への並々ならぬ志と粋筋の女性たちへのやまれぬ憧憬を胸に、再上京した梢風は、東京での意欲的な新生活を始めた芝神明には特別に想いを持ち続けたらしく、ふたつの作品で真っ向から取り上げている。

ひとつは、大正9年<1920年>出版で三作目の著書である『灯影奇談』のなかの第9話「芝神明」①。もうひとつは、昭和34年<1959年>出版の晩年の著書である『女経』のなかの「第八話 今は昔芝神明の物語」②である。

この2作には、およそ40年の隔たりはあるが、梢風が芝神明の下宿を根城にして吉原をはじめ東京中の遊興地を遊び歩いた遊蕩三昧の日々のなかで、神明で出会った女性との男女関係の顛末が描かれていることでは共通の題材である。

この2作から、舞台となっている大正3年<1914年>ごろの芝神明の風景を拾ってみよう。

まずは、下宿先の旅館について。

「日陰町の通りに面している大神宮の鳥居から四五軒南へ寄った處に日吉館という旅館を見つけて、首尾よく下宿の交渉を纏め」た。①

「私は日陰町通りで鳥居から大門へニ三軒行ったところの日田旅館という家に小一年下宿してそこから三田の学校へ通ったことがあった。」②

旅館名は微妙に違うが、同じ旅館であることは、記述をみれば一目瞭然である。

日陰町通りについて、港区史第5巻に「芝大神宮から新橋方面へ向かうと、いわゆる日陰通りに出る。日陰通りとは、日陰町および露月町、源助町、柴井町の裏通りの通称で、現在の新橋駅の西側、新橋五~六丁目辺にあたる。」とある。

*上記地図の黒線が、「日陰町通り」と言われている道筋。
市電の走る道路を境にして、新橋側と神明側では、随分と雰囲気が違っていたらしい。
赤丸は、「芝大神宮(芝神明神社)」

芝口町、露月町、源助町、柴井町の中央を旧東海道、現在の第一京浜が通り抜けており、そのまま、宇田川町、浜松町1丁目を抜けて、増上寺の参道と交差する大門の交差点へ続いている。

現在の新橋駅の浜松町寄りにあった日陰町は、芝口町と接しており、その境界にあたる通りがそのまま、日陰町および露月町、源助町、柴井町の裏通りとなり、宇田川町と浜松町1丁目の裏通りは、現在の神明前商店街の通りに重なり、増上寺の参道まで続いている。

日陰町通りの風情といえば、明治の頃から有名であったらしく、いろいろな文献に噂話が載っていたらしい。

ー ー「古本屋を見てひやかして歩くこと」を楽しみにしていた若き日の田山花袋(かたい)は、池の端の二三軒や神田の明神下、湯島の細い阪路と並び、芝の露月町の細い巷路に通ったと回想しているが(田山 一九一七)、ここは日用雑貨が何でもそろう場所だった。
例えば明治三五年(一九〇二)に刊行された『改訂増補東京名物志』では、「狭小なる街路を挟みて両側には和洋古衣出来合新衣古道具等所謂日陰町物を販ぐの店舗櫛比し柳原(注1)と好一対の名所なり又其他百貨の店あるを以て需むる所物として得ざるなく下層社会の為には便利なる土地なり」と紹介している。しかし、住民たちにとっては便利であっても、観光客が気軽に行くのはいささか危険であったようだ。同三四年に刊行された『東京横浜一週間案内』では、「有名なる日陰町の古着、古物の市をひやかして新橋に立ち戻るべし」と勧めつつ、「イカサマもの誤魔化しものゝ本場にて一円位の品を五円八円位に売るは平気なり先づ大体半分値(ママ)ならば喜で売るべし決して古着、古物には手を出さぬをよしとす」と注意を呼び掛けているのである。
ちなみに、同書が安心安全に買い物をするため「東京に不案内なる人には、尤も都合よき場所なり」として薦めているのは、芝公園内に明治二一年に開設された東京勧工場であった。
~『港区史第5巻』
(注1)現在の秋葉原易近くの柳原の土手に並んでいた古着屋は江戸の昔から有名だった。

ーー 芝の日陰町は、私の最も忘れがたい町である。それも、烏森の最寄りは門並み古着屋で、薄暗い店の奥から不気味な声で呼びかけられるのが、不愉快であるが、神明前になるとすっかり町の趣きが変わり両側はどれもこれもちんまりと片付いた小奇麗な店ばかりで、ことに思い切って道幅の狭いのが町全体整った感じを與て何とも言えず古風な落ち着きを見せている。高い木造りの鳥居を潜ると其処から社まで、まっすぐな石畳で、写真屋、小料理屋、芸者屋、三味線の師匠などといった家ばかり並んでいる。~村松梢風『女経』

江戸の昔から、関東のお伊勢様とも呼ばれてきた芝神明宮にあった大鳥居は、伊勢神宮と同じで、歴史的に最も古いと言われている「神明鳥居」であった。現在は、鳥居は社殿への階段の麓と国道に面して建っているが、梢風の文章の鳥居は、日陰町通りの延長線上にある神明前通りに面して建っていたらしいことを偲ばせる。

芝神明を愛して止まなかった梢風によれば、「春の桜の時分は、一番情緒があった。」という神明神社前について、実証的な文章で名を馳せた梢風がひときわ入れ込んで書いてあるようにしか読めない文章を拾ってゆく。

ーー神社へ向かって左側の一廓は、花柳界で待合が立ち並んでいた。東京でもあまり幅の利かない花柳界だったろうが、あれで存外通人が遊びに来たものだという。
~村松梢風『女経』

ーーところで、神明には、もうひとつ名代のものがあった。花柳界と反対側の神社に向かって右側の一廓にある「神明の矢場」がそれだった。昔は、文字通り矢場ばかりあったのだろうが、いつのころからか浅草の千束や十二階下と同じ様な銘酒屋が立ち並んで、私の頃には矢場は二軒しかなかった。多くは「新聞縦覧所」という看板をかけていたそうした女のいる家は百軒近くあったが、この土地を総称して「神明の矢場」といったもので、その意味ではかなり有名だった。神社前の広い道路から狭い道を入ってゆくと、俄然この一廓へ踏み込むようになっていた。~村松梢風『女経』

「銘酒屋」とか、「新聞縦覧所」とかは、字義以外の特殊な意味があった隠語であるようだ。

「銘酒屋」とは、「銘酒を売るという看板をあげ、飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した店。現在のピンクサロンに相当する。明治時代から大正時代、東京市を中心にみられた。」(Weblioより)

「新聞縦覧所」とは、「公費で新聞を買い上げ、有料または無料で供覧に付していた施設。後に私設の縦覧所も増加した。日本の明治時代を通じ普及、衰退した。」というのが本来の意味だが、「また、明治後期には、矢場(射的場)、銘酒屋と並んで、闇の売春所としても知られていた。銘酒屋の取り締まりが厳しくなるにつれて、新聞や菓子、牛乳などを形ばかりに並べて新聞縦覧所の看板を掲げ、売春やその斡旋を陰で行なっていた。」(Weblioより)

神明神社の大鳥居からの石畳の参道には、写真屋、小料理屋、芸者屋などがあり、左側の一郭は花柳界で、右側の一郭は私娼を置いている店が多くあったことがわかるというか、多くどころか「そうした女のいる家は百軒近くあった」というのは、尋常ではない活気だ。

梢風の神明を題材にした二作のうち、『灯影奇談』は大正9年発行であり、その描写には、40年後に書かれた『女経』より、神明での体験がその生々しい情感を残したまま漂っているように感じられる。若いときの経験を若いときに書き、後年読み直すとその未熟さに鼻白みもするが、そこにある生き生きとした雰囲気に唖然とすることはだれもが経験することだろう。

ーー境内には八重桜が咲き乱れていた。私は高麗犬の臺石などに腰をおろして心ゆくばかりあたりを眺め入るのであった。神々しい拝殿に朱塗りの大行燈の灯がゆらゆら漂う頃になると、境内にそって軒を並べている待合の二階にも一斉に灯が点されて、影法師を映した障子の内から、陽気なさざめき声が湧き上がったり、威勢よく三味線が鳴り出したりした。褄をとった芸者などが参詣に来ると、社務所にいる黒い袴をはいた男が拝殿の真ん中に立ててある大きな幣束(ぬさ)を持ってきて、額づいている女の頭の上でサラサラと振ったりした。
~村松梢風『灯影奇談』


ーー向かいの矢場が盛えるのもやはりその頃からであった。西洋づくりの写真屋の建物と芸者屋との間の露地というより隙間と言いたいほどの狭い屋間(やあい)に初めて足を踏み入れた人は、次第に眼前に展開してくる不思議な光景に対して脅威の眼を瞠られずに居られなかったに違いない。足にまかせて進んでゆくうちに、路はいつしか広くなる。やがて、それは幾筋にも岐(わか)れ、たちまちにして四通八達の別天地を現出する。銘酒店、揚弓師、待合、猥らな扮装をした女、客を呼ぶ艶めかしい声、噎(む)せるような脂粉の香 ― 。
~村松梢風『灯影奇談』

何という素晴らしい文章だろう。
咲き乱れる桜のなかでたちまちのうちに正体を失い、あっという間に異界に導かれて行ってしまう。サラサラというきらっとした光を放つ音のしたには、黒々とした島田髷に重量感のあるゆったりとした詰め袖の芸者が生え際の美しい白粉のうなじをみせて額づき、紅灯を放つ木造の建物からは、三味線の音色が生きもののように手足を延ばしてきている。しかも、反対側の写真屋のわきの隙間、そんな隙間はほんとにあるのだろうか、その隙間を潜り抜けてゆくと路は広がり、そしてまた、幾筋にもわかれ、それぞれの先に別天地があることを、今度は地の底から這うように延びてくる紅灯の灯りが知らせてくれる。

こんな迷宮のようないかがわしい異世界が夕闇とともに出現する空間が、ある時代には存在したことに、戸惑いを覚えながらも贅沢な羨望を夢想せざるを得ないのは、私だけだろうか。

現在、神明神社の社殿に上るあの急な階段に腰を腰かけ耳を澄ませたときに、どんな声が聞こえ、どんな音が響いてくるのだろうか。

近しいところでは、第一京浜を忙しく行き交うクルマの音や願い事をするために神社に訪れた少し愁いをおび一歩一歩を自ら確かめるようなここそこのひとたちの跫音か。
遠いところからは、近くの音たちの向こうには、今や幻となってしまった木造りの待合からは陽気な三味線、長唄、端唄、流行り歌が、今はただの道になってしまったかつて迷宮へ誘った路地からは、嬌を含んだ客引きの声が微かに糸を引くように伝わっては来ないだろうか。

*参考引用図書
『港区史 第5巻 近代 下』~「第5章文化と文化財 第一節文化ー江戸と東京の交差点 1.芝区」
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (adeac.jp)


村松梢風『灯影奇談』

『灯影奇談』(大正9年)
「灯影奇談~芝神明」

灯影綺談 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)


村松梢風『女経』

『女経』(昭和34年)
「女経~第八話 今は昔芝神明の物語」

女経 (中央公論文庫) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)


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