泰安洋行 〜ヨーロッパの旅〜 6
フランス、パリを出発した格安バスは、
貨物列車に乗せられてドーバー海峡を渡って、
ロンドンのヴィクトリアのコーチステーションに着いた。
イタリア、ローマから西ヨーロッパをぐるっと一周して、いよいよイギリス。
最後の旅が始まった、って感じだ。
London Calling
もう2ヵ月近くヨーロッパを周ってきたおれには、
特別、ロンドンの街並みにビビることも感動することもなかった。
ただ、おれの大好きな音楽が生まれ育った街ということへの感慨深さ。
リスペクトからくる緊張みたいなものがある。
1960年代のブリティッシュビート、
1970年代のロンドンパンク。
子供の頃そんな音楽にぶん殴られた。
そしておれの血はそいつでできてる。
バスターミナルから近所のメトロの駅まで、
曇り空のロンドンの住宅街をキンクスを聴きながら歩いた。
物価がとにかく高いこの国で、今夜満足な食事ができる気はしなかったけど、
そんなことはどうでもいいくらい最高だった。
"Rock'n'Roll" Is Here
朝、気持ちいい二度寝をキメて外に出る。
ホステスの前のハイドパークを歩く。
とにかく広くてのんびりしてる。
ジョガーがとにかく多い。
東京の皇居あたりみたいな感じ。
ハイドパークっていったら、
1969年。リーダーのブライアンが死んだ2日後にローリングストーンズがフリーライヴをやったところだ。
ハイドパークから歩いてSOHO方面へ。
途中、ジョンとヨーコ、リンゴ、ジミヘンと代わる代わるにスターが住んでいたビルを通りかかったんだけど、
工事中のただのビルだった。
サヴィルロウにあるのは旧アップルコア本社。
ストーンズのハイドパークと同じ1969年、
このビルの屋上であった事件が
"ルーフトップコンサート"。
警察に電源を落とされた後、黙ってスイッチを入れ直すジョージの面構え。
I've Got A Feelingのポールのテンション。
One After 909のうねるグルーヴ。
全てが最高だった。
高級ブティックが並ぶ静かな通り。
すぐ近くのベンチに座って上を見上げる。
あの日の空はどんな色をしてたんだろう。
風が強くて寒そうだったよなあ。
SOHOのカーナビーストリートはモッズ、サイケデリックカルチャーの聖地。
当時はジミヘンもストーンズのメンバーたちもこのストリートで最新のイカした服を揃えていたんだって。
今では通りに無印良品なんかがあるのが
なんか感慨深いなあ。
ローリングストーンズのショップもあった。
当然だよね。
入り口のドアには "Charlie Watts" の文字。
泣ける。
SOHOを抜けて、いくつか楽器屋が並ぶ、
デンマークストリートに出る。
その中の一つ、Regent Soundsは、
昔はスタジオだったらしく、
ローリングストーンズのファーストアルバム、
それからセカンドアルバムのほとんどはこのスタジオでレコーディングされたとのこと。
たぶん1963年の終わりか、1964年はじめ頃。
クソガキブルースバンド時代のローリングストーンズはある種の絶頂期だと思ってる。
ファースト、セカンドあたりは黒いブルースをめちゃくちゃクールにやっていて最高なんだ。
もちろん"ブラウンシュガー" "ジャンピングジャックフラッシュ"とかも最高だけどね。
中心地からメトロに20分も乗って、
ゴルダーズグリーンという駅で降りた。
静かなアップタウンだった。
大きな一軒家がゆったりとした距離感で並んでいる。
ゴルダーズグリーン火葬場。
ここにはザ・フーのドラマー、キースムーンが眠っている。
火葬場の前にある広い芝生、彼の骨はここに撒かれたらしい。
音も、私生活もとにかく"やかましい"彼がこんな穏やかな場所で眠ってるんだ。
キース、どんな気分?
おれはザ・フーが大好きだ。
キースムーンはロックンロール界一のクレイジードラマーだと思っている。
てか、これはみんな異論はなくない?
キースムーンのお隣にはマークボランのメモリアルプレート。
最高にゴキゲンなブギをやっていた彼は、
30歳になる二週間前に交通事故で死んだ。
歳下のやつの墓参りなんて初めてかもなあ。
そういや高校生の頃、
美容院に行くときはいつもマークボランの写真を見せて「こんなパーマをかけて」って言っていたおれだ。
偉大な先輩たちに合掌。
Camden Town is Burning
ロンドンパンクの聖地カムデンという街に来た。
ザ・クラッシュのセカンドアルバムを聴きながら。
土曜日のカムデンはとにかく人が多い。
お土産屋や服屋がぎっしり並ぶ、原宿そっくりの街だった。
鋲ジャンに綺麗なモヒカンを逆立てた、観光用のパンクスがいた。
お金払うと写真撮らせてくれる、みたいな。
ロンドンでの裏もくろみ。
それはカムデンのドクターマーチンでブーツを買うこと。
とりあえず店内に入ってブーツを眺めていると店員のお姉さんが
「ハーイ。どれが気になるの?」
とフランクに話しかけてきて、
気がついたら試し履きしていた。
一旦迷おうってことで一応キープしてもらって店を出た。
煙草を一本吸いながら考えて、
やっぱ買っちゃえってことで店に戻って購入。
チェリーレッドの8ホール。
ドクターマーチンの近くのイカしたモッズ屋でかっこいい服を羨んで見てたら、外には人だかり。
ガチのモッズのじいちゃんたちがミラーだらけのベスパで店の前に乗り付けた。
通行人は一同騒然。
なんか東京の電車にお相撲さん乗ってきた時みたいな感じ。
それにしてもめちゃくちゃかっけえな。
ロックの破片が街中に散らばっているロンドン。
イングランドは今まで旅してきたヨーロッパの中でもきっちりした感じがする。
アメリカで生まれたブルースやロックンロールが海を超えて、
それに特に大きく揺さぶられたのがイングランドと日本の若者だったはずだけど、
その理由がなんとなくよくわかる気がする。
階級社会のイングランド、
同調意識の強い日本。
そんな社会で上手くやれない愛すべきクズが絶対に出てくるはずだ。
そしてそんなクズを肯定してくれるのがロックンロールだったはずだ。いつだって。今だって。
旅の終わらせ方
ロンドンでは"旅行"みたいなことになっちゃったけど、
また今日からまた"旅"。
あともう少しだけ続く。
ここらでもう一発、
帯を締め直すタイミング。
いやベルトだな。
長くてタフな旅にはとにかく体力と、
ボウルのような大きな感受性が必要だ。
おれを乗せた真っ赤な大型バスはこの国のどこかを走ってる。
マンチェスター郊外で静かな夜を過ごしてる。
ロードサイドのKFCのカーネルがこっちを向いて笑ってる。
しかし旅も経たなあ。
もう初めて降り立ったパリも、アンダルシアの空も、リスボンの坂道も遠い昔のことみたい。
漠然と旅の終わらせ方を考えはじめてる。
終わらせ方っていっても、日が経てば放っておいても勝手に終わるんだけど。
自分で始めたことだから、
やっぱり自分で終わらせるものなんだろう。
Livepool on My Mind
マンチェスターを出た満員の鈍行列車は1時間くらいでリヴァプール・ライムストリート駅に着いた。
サージャントペパーズを聴きながら。
リヴァプールに来た理由。
ビートルズの足跡を辿ること。ただそれだけ。
ロンドンからすでにそうだと思うけど、
ここからは本格的に旅行記の枠をはみ出しちゃうかもしれない。
リヴァプールでの宿は中心街、マシューストリートの入り口にあった。
ホステルのグランドフロアは"ストロベリーフィールズ"というバーになってる。
マシューストリートにはデビュー前のビートルズ、
もっといえばその前身バンド、クオリーメンがライヴをやっていたバー、キャバーンクラブがある。
マシューストリートを抜けて、
リヴァプール市庁舎に続く通りを左に曲がるとマージー川に出る。
1960年代の"マージービート"のマージー川だ。
海の匂いが混じった薄汚い川だった。
マージービートのように軽快な海風がおれの髪を揺らす。
リヴァプールの街は栄えてはいるけど、
新しく建てられたであろう大きなモールなんかがあって、地方都市のムード満載の港町だった。
Fab4が揃ってイングランドのこの町に生まれ、
アメリカのロックンロールに憧れて楽器を手にして出会った。
そして彼らは世界を変えることになる。
まさにロックの原点のような町で、
彼らの足跡を探す。
リヴァプールの中心街からダブルデッカーのバスに乗って、
まずはジョージの生まれ育った家に向かった。
ヒア・カムズ・ザ・サンを聴きながら。
ジョージも街からこのバスに乗って家路についたのかな。
がらんとした住宅街。
赤レンガの小さな家が並んでいた。
なんとなくジョージらしい。
ジョージの家からしばらく歩く。
アラートンロード沿いに真新しいジョンの銅像がみえる。
そこから始まる路地が"ペニーレイン"だ。
別にになにかがあるわけでもない通りを、
ペニーレインを聴きながら歩く。
えらいもんで妙にマッチする。
ペニーレインからセフトンパークという気持ちのいい大きな公園を通り抜けて、街の方向へしばらく歩くと、
遠くにサイケデリックなリンゴのウォールアートが見える。
あたりはムスリム系の移民が多く、
広々とした通りの雰囲気の良い住宅街だ。
この細いビルはリンゴのファーストソロアルバム、
"センチメンタルジャーニー"のジャケットのあのビル。
このすぐ裏にリンゴの生家があった。
ピンク色に塗られた外壁。
これもやっぱり、なんともリンゴらしい。
リンゴの家の路地からすこし大きな通りに出ると、大きなリヴァプール大聖堂が見える。
ストロベリーフィールドまでは、
中心街からバスで30分は走っただろうか。
ジョンの生家のあるメンローブアベニューから一本路地を入ったところにあった。
このあたりは他のエリアとちょっと雰囲気が違う。
どこか洗練されていて、とても空気が澄んだ感じがした。
子どもの頃、長期休みのたびにばーちゃんに連れて行かれた軽井沢を思い出す。
しょっちゅうストロベリーフィールドに遊びに来ていたジョンが軽井沢を気に入った理由がわかった気がする。
ストロベリーフィールドはというと、
グッズショップとレストランがある観光地だった。まあそうだよね。
ストロベリーフィールドからメンローブアベニューに戻って、5分も歩くとジョンの家がある。
おれがジョンの家に着いた頃、
さっきのツアーのバスも追いかけてきた。
バスで移動するなんて、なんてもったいないんだろう。
おれには、散々ジョンが歩いただろうこの道を歩いてきた優越感があった。
肝心のジョンの家は工事中。
めちゃ普通の小さな家だ。
彼はここでミミおばさんと暮らしていたんだ。
世界一のソングライターも、こんな普通の小さな家で生まれ育ったんだなあ。
ジョンの家から15分くらい。
蔦だらけの細い道なんかを歩いて着いたのは、
セントピーターズという静かな教会。
1957年。16歳のジョンと15歳のポールが初めて出会ったのがセントピーターズという教会のガーデンパーティー。
ここでポールがはじめてクオリーメンのライブを観た。
そして共通の友達に紹介されて、
ジョンの目の前で、ギターでエディコクランやジーンヴィンセント、
そしてピアノに移動してリトルリチャードを歌った。
それを目の当たりにしたジョンがポールをクオリーメンに誘ったのだ。
まるで偶然のような必然のめちゃくちゃドラマチックな出会い。
そしてそのセントピーターズの共同墓地には、
名曲、エリナーリグビーの歌詞に登場するあの
"エリナーリグビーさん"
そのすぐ近くに"ファザーマッケンジー"の墓石がある。
曲に出てくる名前はポールが適当に考えたものだけど、
彼らがよく遊びに来ていたこの教会の墓石の名前が深層心理的に呼び起こされたのか。
それとも奇跡的な偶然なのか。
ジョンの家から緑豊かな道をしばらく歩くと、アラートン墓地という広い霊園がある。
この墓地にはジョンの最愛の母ジュリアが眠っている。
彼女は、ジョンの家からの帰り道、
バスに乗ろうとメンローブアベニューを横切ったとき、非番の警察官が運転する車に轢かれ亡くなった。
ジュリアが44歳。ジョンが17歳の時だ。
インターネットの写真を頼りに、
端から端まで歩いて20分以上かかる広い墓地の中を汗だくになりながら1時間以上探し歩いた。
人の墓を一生分みたな。
そして入り口から一番奥のブロックに、
やっと一際小さな墓石をみつけた。
疲れ果てて、墓石の前の芝生に思わず座り込む。
ホワイトアルバムから"Julia"を聴きながら。
誰もいないだだっ広い原っぱ。
緩やかな風が草木を揺らす音だけが聞こえる。
小さな墓石を眺めていると、
なんとなく "ジュリアを訪ねてきた感じ" がしてきた。
おれは感覚的に、
死んじゃった家族や、
清志郎や鮎川誠さん、ジョンレノン。
いつでも空を見上げたら会話できるようなシステムを採用しているので、
墓にその人がいる感じがしたことはあまりない。
それなのになんでだろう。
ジョンにはあっても、その母ジュリアにそこまでの"思い"みたいなものはないはずなのに。
誰もいない静かな芝生の上でジュリアと2人で過ごす静かな昼下がりは、
苦労して見つけ出した達成感も手伝って、
リヴァプールで一番印象的な時間になった。
雲の切れ間からの強い日差しの下で、
ただ墓石を眺めて風に吹かれていた。
「じゃあね。そろそろいくわ。」って言って腰を上げた。
なんか遠い異国の空の下で、
親戚のおばさんみたいな匂いの歓迎をもらった感じがした。
また近くにきたら寄るね。みたいな。
アラートン墓地から10分も歩いたところに、
ジュリアの家はあった。
インターネットにたいした情報もないし、
ここはあまり観光地になってないみたい。
結局ジョンはこの家に住むことはなかったけど、
クオリーメンがいつも集まって音を出していたらしい。
同じ町で母と離れて暮らすジョンは一体どんな気持ちだったんだろう。
もし2人がもっと長生きしていたらどんな関係であったんだろう。
ポールの家は4人の家の中で、
一番閑静な住宅街にあった。
心なしか建物のつくりも一番しっかりしていて、育ちがいい感じがする。
いかにもポールだ。
この家に住んでいたリトルリチャード狂いの少年が、
世界中で知らない人はいないようなみんなの財産のような曲をたくさんつくったのだ。
こんな小さな町の普通の家に生まれた子どもたちが世界を変えちゃった。
そんな彼らにもただの田舎のガキ時代があったんだなあとか思いながら、
リヴァプールの住宅街をアスリート並みの距離を歩いた。
リヴァプールにはいくつかのビートルズミュージアムみたいなものがあるけど、
結局そこには行かなかった。
地味に高い入場料をケチったのもあるけど、
おれはミュージアムみたいなものより
彼らが歩いたであろう道を歩いて、
彼らが過ごしたであろう街角でコーヒーを飲む。
それのほうがずっと"リアル"な気がするから。
彼らの生まれ育った町を、
彼らの音楽を聴きながら一人静かに歩いて周った。
それはきっと素晴らしい出来事だったと思うはずだ。いつだって。
移民街とバギズム
バーミンガムの街を歩いている人は、
体感では半分以上がムスリム移民たち。
ムスリムの人は穏やかで優しい人が多いイメージなのでどこかホッとさせられる。
今夜の宿には若者はあまり泊まってない。
レセプションにはあまり綺麗ではない格好のおっさんたちがフットボールを見て盛り上がっている。
若者だらけのうるさい宿も嫌だけど、
身なりの悪いおじさんだらけなのも、
なんとなく落ち着かない。
人を見た目で判断するのはよくない。
もちろんそれが適用されるシーンは多いけど、
勝手のわからない海外、どこの国の誰なのかかわからない人と関わる時、
身なりや様子で判断するしかない。
それが自分の身を守る術なのだ。
もちろんある程度会話をして相手を知ったり、
長い時間を一緒に過ごせば別だ。
人間同士の付き合いには見た目なんてものはどうでもいい。
ティーンエイジャーの頃。
おれが革ジャンに金髪のパンクスになろうが、
ドレッドヘアのヒッピーになろうが、
なにも変わらず挨拶してくるクラスメイトがいた。
みんな、距離をとって様子見してくるとか、
すげーな的なリアクションをとるとか、
どうしちゃったの?とか直接聞いてくるとかするとか、とにかくそのことにフォーカスしてくるわけなんだけど、
そいつはまるで目が見えてないみたいに、
同じように挨拶してくるんだよ。
しかも特別仲がいいわけでも、一緒に遊ぶわけでもない。
なんて素晴らしいやつなんだろうと思ったなあ。
それからおれはそんな風になりたいなあと思ってる。
人と心の奥で付き合えたらどんなにいいだろう。
パンクロックやロックンロールは
社会に噛み付くアナーキーで凶暴な思想だと思う人がいるんだろう。
寂しいなあ。
パンクロックのやさしさがわからないなんて。
それでいてZARDとかがやさしいとか言うんだろ。
まあZARDはなにも悪くないよ。ごめん。
たとえば、あなたがどんな格好をしていても、
腕が、脚がなかったって、
体中ぶつぶつだって気が合えば友達なのは当たり前だけど、
(なんか"中島らも"みたいになってるな)
言葉の真意や、表情の奥、心の奥。
その人の"ほんとう"を見ようと思うとこの目が邪魔だ。
昔ジョンとヨーコが頭からゴミ袋被って会見してたよなあ。バギズムだっけ?
性別や肌の色や年齢みたいな外見からの情報がもう偏見だ!みたいなやつ。
あれ思い出しちゃった。
本当どこまでいってもイタいよなあの人ら。だから大好き。
彼らのそんな気持ちが痛すぎるほどよくわかるぜ。
とにかく目から入ってくる情報に揺さぶられ過ぎてんだよ。
今日のドミトリーは女性ばっかりでなんとなく安心するとか。
まだまだ修行が足りねえわもう。
真っ白い昼下がりに真っ黒いエスプレッソ
バースは美しい町だった。
旅の最後に寄り道した町が、
どこか旅の始まりのローマを思わせる街並みなのが、なんとなく感慨深い。
無意識にエスプレッソを注文してた。
砂糖をたっぷり入れてローマスタイルで。
"My Girl"
どこかからうっすらとテンプテーションズのがきこえてくる。
スイートなソウルミュージック。
久しぶりに、てかイギリスで初めて色のある町だ。
そして久しぶりにTシャツ一枚で過ごせる季節になった。
暑くもなく寒くもない気持ちいい夕方だ。
なんとなく寄ったさりげない町が、
延泊したいくらい居心地のよさだったりするのが旅らしい。
明日のバスでロンドンに帰る。
これで長い旅が終わる。
名残惜しさもあるけど、
今はやり切った達成感のほうが大きいかもしれない。
London Nites
細い中華煙草。薄いコーヒー。
Baby's In Black
イカした人ほど大胆に真っ黒い服を着てる。
オックスフォードストリートの裏通りで、
ひょっこり顔だけ出して通りを覗いてるロックスターに誰も気がつかない。
ロックンロールはこの街でも、
地下鉄より地下にいるみたい。
夜9時過ぎ。
133番バスがロンドンブリッジを渡る時。
テムズ川の向こうにトワイライトが見えた。
おれはすかかず "STOP" のベルを鳴らして、次のバスストップに飛び降りると、
強い風に包まれた。
旅の終わりのにおいがちょっとした。
夕暮れ時。
ピカデリーサーカスから湿った安宿まで歩いて帰った。
ピカデリーサーカスには、
そのまま街のかたちをしたような浮かれたやつらがわんさかいる。
ハードロックカフェなんてこの街には必要のないはずなのに。
グリーンパークを斜めに突っ切る。
広い芝生ではたくさんの若者たちがビールを飲んでいる。
こんなんなら日が長いのも悪くない。
グリーンパークを抜けるとバッキンガム宮殿が現れる。
へえ、イギリスの兵隊は本当に毛皮の帽子を被ってるんだなあ。
たくさんの人が柵の間から手を伸ばして写真を撮っている。
でも、おれには立ち止まることのないただの散歩コースだった。
ヴィクトリアステーションあたりまで帰ってくると、
こじんまりとしたレストランが増えてきてほっとする。
スーパーマーケットでは老人がビーンズの缶詰を吟味しているし、
ドミノピザの前ではデリバリーの兄ちゃんが、
バイクに跨ってスニッカーズを食べている。
フィッシュ&チップス屋の兄ちゃんは、
いつも鼻歌を歌っている。
現地人にも移民にも観光客にもなれないおれは、
スーパーマーケットでいつもの安いオレンジジュースとチョコレートを買って、
咥え煙草で宿まで帰るのだ。
旅の終わり
そんなこんなでロンドンに帰ってきた。
今回はハードに聖地巡りをするわけでもなく、
ただひたすらにロンドンという街を歩きまわっ
たり、
だらだらコーヒーを飲んだりしていた。
アビーロードスタジオは意外と車通りの多い通りにあって、
みんな忙しなく"アビーロード"していたのがシュールでおもしろかった。
ノッティングヒルの骨董市場には、
古いブルースのレコードが転がっていたし、
夕方のウォータールーの橋をパレスチナ解放運動の過激派がジャックしていた。
その全部が紛れもなく "今日のロンドン" であると思うと、
この街が愛おしくなった。
ロンドンは都市としてかなりの規模がありながら、
どこか王国としての余裕とプライドに
常に触れているような感じがする街だ。
ここが旅の終わりにふさわしいか知らないけど、
ここからまたどこかへっていう気にもならないってことはふさわしめなのかもしれない。
イタリアのローマから始まって、
一応、都市国家バチカン。
南イタリア、サレルノ、ナポリから北上してフィレンツェ、ボローニャ、水の都ヴェネツィア。
ベローナ経由でオーストリア、アルプスの真ん中インスブルック。
ドイツはミュンヘン、フランクフルト、ケルン。
オランダはアムステルダム、ロッテルダム。
そして南下してベルギー、ブリュッセルで財布を盗まれて日本へ強制帰国。
フランス、パリから旅を再開。
食の都リヨンに寄って、
南フランスの地中海沿いを。
マルセイユ、アヴィニョン、モンペリエ。
そしてスペインのバルセロナまで。
そしてアンダルシア地方、コルドバからセビーリャまで行って国境の町バダホス。
ポルトガルはエントロンカメント経由で西の果てリスボン、ポルト。
そこからブラガンサまで行ってスペインに戻る。
バリャドリードから首都マドリードまで。それにトレド。
北上してバスク地方ビルバオ、サンセバスティアンからフランス、ボルドー。
トゥールからアンジェ経由でレンヌ。
そこからノルマンディーの小島モン・サン・ミシェル。
ル・マンに寄ってパリに戻る。
そしてバスごと貨物列車に乗っかってドーバー海峡を渡ってロンドンへ。
マンチェスターまで北上して憧れのリヴァプール。
バーミンガムからブリストル経由でバース。
そしてロンドンに戻ってきた。
トータルで63日。
おそらく列車を24、バスを27本使って、
陸路だけで40の町を旅した。
ざっくりと計算して移動距離は10000kmちょっと。
意外とそんなもんなのか。
甘くみていたけど、
体感としてヨーロッパはやっぱり広い。
そしてバスに乗ったままパスポートコントロールもなく国が変わる。
その国のあいさつもパッと出てこなくなるし、
なんなら今自分がどこの国にいるのかわからなくなる。
とにかく、バスや列車で景色を眺めながら
地続きで旅できたことで、
よりその広さや景色をリアルに感じられた。
この旅に"意味"なんてあるのか。
そんなことにはさらさら興味はないけど、
きっとこれからも "おれがおれでいるため" の一部としてあり続けるんだろう。いつまでも。
旅の最後の夜はなんて静かなんだろう。
日曜日の夜のピムリコ。
店なんて全部閉まって人っこひとりいない。
この旅で毎秒いろんな気持ちになりながら、
できるだけ純粋に、正直に、とか漠然と思いながら過ごしてた。
それで純粋って何?正直って何?
そんなもんしらないけど、
おれたちはいつだって純粋で正直でいよう。
2024年の冬から春にかけて
From ヨーロッパのどこか