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思考のドツボにハマって抜け出せない

『(方向音痴なこの私が迷わないための)仕掛けのサインデザイン』について考えることになったので、まずは自分がどうして迷うのか解明していく。

「やりたいこと」と「やらなきゃいけないこと」の間でジタバタ右往左往しているのは世の労働者だけにあらず・・・ですよ。

人間だってサインだって

なんか文字が小さかったり、背景とサインが同系色になっていたり。『サイン無くして人生は成り立たない(名言か)』という私は、よくこんなサインに出くわす。どうして、こんなにサインをこよなく愛している私ですら見つけづらいサインがこの世に存在しているのか。本当に気に食わない。

そういう視認性を欠いたサインは、読み取るのにもなんせ時間がかかる。私はもう読むのが面倒になって「とりあえずあっちに行ってみればいっか(もちろん根拠はない)」なんて思考にゆらゆら導かれ、結局迷子になってしまうことも度々、いや常々です。また、どうにか頑張ってサインを読もうとしたところで、サインの周りにはいつの間にか同じような思考を持った者たちの人だかりが出来ているので、私は息苦しくなってその場を後にする。
どちらにせよ、私は道がわからず頭を抱え込み、いつもいつも再起不能となってしまうのです…やっとの思いでサインを見つけたのに、なんでだよ!

七転び八起き、もう起きられないかも

(自分が迷わせるサインはどう作られているのか気になった私は、ちょっとそこの先輩デザイナーに聞いてみることにした。その時、彼は何も語らなかったが、今にも泣きそうな顔をしていた。もう少しだけ踏み込んでみようかとも思ったのだが、私が想像する以上に闇が深そうなので一旦そっとしておこうと思う)

ここからは、あくまで私の見解に過ぎないのですが、どうやらこの『視認性の欠落』という一見単純明快なこと、実はサイン当方にとっては意外に解決の難しいことだったりするのかもしれない(らしい)。
特に、洗練された場所に設置するサインほど『視認性』だけではなく『世界観』とのバランスを求められてしまうもの。昨今の国民の美意識の向上も侮るなかれ。サインデザインは道案内をすることが仕事なのに、より一層装飾性が求められてしまうのが現世の実情、なんたるや(悟りを開きたくもなる)。そういう理由から、視認性と世界観の間に貼られた綱をうまく渡りきることができず、奈落の底に落とされているサインが多いみたいです。

そりゃこうもなる

ただ、しかし、それでも、機能してないサインってどう考えてもいらない。私を迷わせるようなサインなんてやっぱり嫌いです。

心のどこかで「私たち同じ迷子だね」と肩を組みたい気持ちは芽生え始めているのですが、私はごく稀にいるような化け物級の頑固なのでやっぱり意見は譲らないことにします。休戦協定はまた次の機会に。





追録 おやつは世界を救う。

It's a Sweet World. 甘いものがなきゃやってられない。今回のお供は『コーコアシガレット』。不憫な世の中、これがなきゃやってられないわ〜

ぷは〜


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