
七咲逢は「ママ」なのか
皆さんごきげんよう
んぱんてと申します。
さて、本日2月21日は七咲逢さんの誕生日ということで彼女について考えたことを述べてまいります(……と言いたいところですが、なんやかんやあって投稿は2月22日になりました)
この記事では、黒猫「プー」のモチーフや温泉デートの真意 そして 七咲逢スキBADエピローグの謎
……等々について幾分か新しい考えをご提示出来るのではないかと思います。
前置きはさておき早速考察に移りましょう。
例により『アマガミ』本編や『ちょおま』についてたっぷりとネタバレ致します。
あらかじめご了承ください。
また急拵えで纏めておりますのでいつにも増して乱文かつ根拠に乏しい妄言にございますがご容赦ください。
①七咲逢のアイコンはなぜ「黒猫」なのか?
アマガミの攻略可能ヒロインにはそれぞれ異なった「アタックマーク」というアイコンが存在します。
例えば絢辻さんならば 言わずもがなの「手帳」、茶道部員の梨穂子は「茶筅」といった具合にそのキャラを特徴づけるアイテムがあしらわれているのです。
そんな中、七咲のアタックマークはというと「黒猫」なのです。
面白いことに「水着」じゃないのですよ。
無論「デアイ」のアタックイベントに衝撃のピークを持っていくためには彼女が水泳部員であることを気取られる要素は抑えめにしなければならない事情は分かります。
会話イベントのたびに競泳水着が視界の端をチラつく設計もいかがなものかと思うのも確かです。
それにしたってどうして「黒猫」なのか。
まずは七咲と「黒猫」の間に一体どのような関係があるのか見ていきましょう。
七咲との関係が深い黒猫と言えば、輝日東高校の校舎裏に出没する「プー」が思い浮かぶことかと思われます。
実のところその黒猫には決まった呼び名が定着しているわけではなく、生徒たちが各々呼びたい名前で呼んでいるようです。
美也「オヤブンって呼んでるのは美也だけだと思う……」
美也「この間、他のクラスの子が別の名前で呼んでるのも聞いたことあるし」
伊藤「そうみたいね。私はリンクって名前でよんでるんだ。ねぇ、リンク」
したがって「プー」というのは七咲のネーミングセンスであることがわかります。
実はこの「プー」という名については『アマガミ』作中世界に元ネタの存在が示唆されています。
これは『ちょおま』の『逢の子守唄』にて判明することでして、七咲が昔好きだった『みかんちゃんとプー』という題名の絵本に登場する黒猫「プー」に由来しているのですね。
後ほど詳しくお話ししますが、この『みかんちゃんとプー』という絵本は、大袈裟に言えば七咲の幼少時代を象徴するトラウマティックなアイテムなのです。
さて、ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、実はこの『みかんちゃんとプー』という絵本にも元ネタがございます。
松谷みよ子の著作『モモちゃんとアカネちゃんの本』シリーズの第二作目『モモちゃんとプー』という実在する児童書の題名を捩ったものなのですね。
「モモ」の代わりに「みかん」という洒落ではありますが、この「みかん」はひょっとすると「橘純一」にちなんだものかもしれません。(橘はミカン科ミカン属の植物ですから)
……世迷言を、と思われるかもしれませんがちょいと深読みをして行くとあながち単なる洒落でもなさそうなのです。
ここから先は少し『モモちゃんとアカネちゃんの本』の内容にも触れつつお話を進めたいと思います。
ご興味のある方はぜひ作品を手に取って読んでいただければと存じます。
『モモちゃんとアカネちゃんの本』シリーズには幼い女の子の「モモちゃん」と妹の「アカネちゃん」そして「ママ」「パパ」の4人家族に加えて、黒猫の「プー」をはじめとした人語を解する不思議な動植物たちが多数登場します。
とは言えファンタジー作品というよりはモモちゃん一家を取り巻く状況を寓話的に描写したお話と見て宜しいかと思われます。
今回特に重要なのはやはり「プー」です。
プーはモモちゃんが生まれて間もなくママのもとにやって来た捨て猫です。
先に述べた通り流暢に人の言葉を喋りまして、幼いモモちゃんの良き親友として、また家族の一員として深くお話に関わってきます。
児童文学者である寺村輝夫氏の解説によれば、この黒猫の「プー」は、モモちゃんの「ママ」の分身として描かれているというのです。
お話の中で「モモちゃん」が「決闘」に赴くというシーンがありまして、その場面に触れつつ彼はこう語っています。
モモちゃんのシリーズに、プーという黒ねこが出てきます。作中では、このプー、人間のことばをしゃべり、人間のことばがわかるふしぎなねこです。
(中略)
しかし、私には、この作品群の中におけるプーは、そんなに単純な存在ではないと思われるのです。童話的小道具としてのみ登場するのではありません。
(中略)
あたりまえの母親だったら、いかに一年生の娘のいうこととはいえ、決闘だ、といわれては、心おだやかではないでしょう。すっとんで止めにいくかもしれません。いや、いくのがふつうです。が、作品のママは、一応へんな顔をしますが、プーにたのむのです。冷静というか、さめているというか……。プーの報告をきくと、まるで見て知っていたような反応しか示しません。
というように読んでくると、プーというねこは、すでにペットでもなければ童話的小道具でもないことに気がつきます。いわばママの分身であるわけです。
決闘ときいて、すっとんで行きたい、が、もしほんとうの決闘だったらという恐れもあるでしょう。どうせ子どものいうことだ、という楽観的な先入観もあるでしょう。その二つの対立、というか頭の中の戦いが「へんなかお」と表現されます。そこでプーが見に行くことになるのですが、
ママは、プーという分身が見る以上のものを、見てもいないのに感じとることができるのです。そこに私は、松谷さんの“母性”を発見します。
(中略)
プーという存在が、けっして道具だてのものではなく、分身、それも相対立するものとして描かれるから、はなす黒ねこという非合理が納得されるのです。
私もこの説には納得しておりまして、当記事ではこれを是とした前提にお話を進めさせていただきます。
つまり黒猫の「プー」とは『モモちゃんとアカネちゃんの本』シリーズにおける「ママ」の対立する分身との対話であり、「母性」に基づいた葛藤を象徴する存在でありましょう。
ここでお話を『アマガミ』に戻します。
七咲との出会いイベントのひとつ(30, 34)は、橘純一が「プー」を追った末に七咲のスカートの中を覗き見てしまうものでしたね。
橘(まさか黒猫を追いかけたら、黒い下着に辿り着くなんて……)
これまでのお話を総合しながら考えていくと、
七咲のアタックマークの「黒猫」とは「プー」であり、橘純一との「デアイ」により顕現した彼女の「面倒見の良い」≒母性の象徴であると言えるのではないでしょうか。
(もちろん彼女の容姿や態度が醸し出す漠然とした「猫っぽさ」を表していると捉えても間違いではないでしょうが)
そもそもアマガミにおける猫は「家族」や「家庭」のシンボルでもあります。主人公の家族で唯一ネームドキャラである「美也」のモチーフは明らかに猫でありますし、美也ルートは猫の「あまがみ」を題材に家族愛について語るシナリオです。
「プー」と「母性」の関係性を裏打ちする……とまで言えるかはわかりませんがこの辺りを踏まえて考えていくとなかなか興味深いものが見えてまいります。
さて、今しがた当たり前のように七咲と「母性」とを並べて語りましたが、そもそも七咲の「母性」はどのように発現しているのか、どのような経緯で生じたものなのか……を見ていきましょう。
七咲に関しては「バブみ」で片付くほど単純な問題ではないのです。
彼女の「母性」が最も直接的に描かれているのが、『エビコレ+』より追加された「上崎裡沙を撃退するイベント」(02, 31)と、そのフラグとなる「ヒロインの信頼を獲得するイベント」(11, 44)でしょう。
七咲「どうかしましたか先輩?」
橘「いや、七咲はまるで理想的なお母さんだよな〜って」
七咲「え? り、理想のお母さんですか?」
橘「うん、七咲はすごくしっかりしてるから、なんだかそんな気がしたんだ」
(中略)
橘「今でも十分すぎるくらいなんだ……将来はお母さんの世界チャンピオンにだってなれるさ!」
七咲「褒めてもらえるのは嬉しいですけど、お母さんになるためにはまず……だ、誰かの奥さんにならないと」
(中略)
橘(けど、お母さんの世界チャンピオンになれるって言った時の七咲、ちょっと嬉しそうだったような……)
……こうして、七咲の母性を褒め称えたことで、七咲の母性がさらに強まった気がする。
お母さんの世界チャンピオンという不可解なワードに対してもまんざらでもない様子の七咲。彼女自身にもそれなりの自負があることがうかがえます。
そしてその後、上崎裡沙がPh○t○sh○pにて加工したでっち上げ写真を見て「お姑さん」じみた叱責をします。これには裡沙ちゃんも困惑を隠せません。
上崎「これじゃまるで、橘君のお母さんに怒られてるみたいだよ……」
無印版から5年経って追加されたイベントゆえ、それこそファンの受容を反映しているのかもしれませんが、公式に「橘純一の母親」としての七咲が描写されているのが印象的です。
このイベントでは、橘純一に煽てられて七咲自身も意識的に母親のような振る舞いをしていると解釈しても良いでしょう。
しかし実を言うと七咲の持ち前の「母性」や「面倒見の良さ」すらも、元を辿れば意識的に母親のような振る舞いをしたことに起因すると考えるのはいかがでしょう。
どういうことか。
これは私の憶測を多分に含みますが、七咲逢は父親に対するコンプレックスがある子なのではないでしょうか。
……七咲の父親?
ひょっとするとファンの間でも全く話題に上がらないレベルで影の薄い登場人物です。
ストーリーにもあまり絡まないのですが、会話イベントではたびたび話を聞くことができます
七 咲「小さい頃はそういう番組を見てしまうと、夜中にトイレに行けなくなってしまって」
橘「じゃあ、そういう時って……」
七 咲「お父さんについて行ってもらいました」
特に重要なのは、彼女の初恋について聞いたときの反応でしょう
橘 「七咲の初恋っていつ頃なの?」
七咲「初恋……ですか」
橘「うん」
七咲「これを恋と呼べるのか分かりませんが、初めて好きになったのはお父さんですね」
橘「へ〜っ、そうなんだ」
七咲「はい、お父さんの身の回りの世話がしたいって、お母さんに色々と習ったりしたんです」
……確かに「大きくなったらお父さんと結婚するの!」という表現は古典的ではありますが、多少懇意になった異性の先輩から「初恋はいつ頃か」と尋ねられて、真剣な顔で父親の話を始める高校生女子はそれなりに稀有ではございませんか。
過去の恋愛をはぐらかして「父親」と言っている様子にも見られず、彼女なりに誠意をもって真面目に返答したのでしょう。
これは言わば七咲の「面倒見の良さ」の成り立ちとなるエピソードです。
この話からも分かる通り、幼い頃の七咲は母親の代わりに家事をすることで父親に愛情を注ごうと考えていまして、さらに言えば母親に成り替わり、父親からの寵愛を独占的に受けたい……エレクトラコンプレックスとまでは言いませんが、ちょっとした母親への対抗意識がうかがえます。
……お話が幼少期で完結していれば全くありがちな体験で済まされるのですが、彼女の場合は少し違っているように思われます。
(近年になって七咲がいつも着ているジャケットは、父親のお下がりであるという設定が明らかになっています。「なるほど慎ましやかな家庭のイメージ」……と受容するのが正しいのでしょうが、私は彼女のコンプレックスがビジュアル面に反映されたものであると穿った見方をしてしまいました)
ちょっと話は逸れるかもしれませんが、七咲には「地雷」となるワードが存在することは皆さんも薄々勘付いていることでしょう。
一つは「年上」
もう一つは「胸が大きい」です。
実はこれ、両方とも橘純一の性癖のツボであり、かつ七咲逢が「持っていないもの」いわば劣等感を抱くポイントたちなのですね。
以下、「シリアイ」のイベントにおいて七咲から「私の事をどう思ってるのか」と尋ねられた時の選択肢であります。
・SELECT
⚪︎1年生にしては大人びてるかな
⚪︎僕は胸の大きい子が好きなんだ
⚪︎僕は年下には興味が無いんだ
下二つは七咲を激怒させてしまう選択肢でして、一時的に星取得の機会を逃してしまいます。
もちろん、こんな言われようならば傷つくのも当然ですが、その後のイベントでは「食おば」や紗江ちゃんに嫉妬している様子が窺えます。
これらの要素にどうしてそこまで劣等感を抱くのでしょうか。
よくよく考えてみると「年上」であることも「胸が大きい」ことも、一般的には「母性」の象徴として捉えられがちな要素なのですね。
つまりはどちらも七咲が「母親」然と振る舞う上では非常に不利になる分野です。お母さんの世界チャンピオンを目指す七咲にとってこの弱点は痛恨の極みでしょう。
それを言うならば橘純一の性癖についても触れなければフェアではありませんね。
彼は彼で母性的な属性を持つ女性に滅法弱いということになります。
そしてこれを見抜いていたのは流石の慧眼、棚町薫。
薫が純一の好みのタイプを聞くイベント(56, 20)にて、「やっぱり年上かな」という選択肢を選びますと以下のようなやりとりが繰り広げられます
橘「やっぱり年上かな」
棚町「オッケー年上ね、それならバッチリだわ」
橘「バッチリって……どういう事だよ」
(中略)
棚町「純一、だから言ったでしょう。次の日学校に持っていくものは、前の日にそろえておきなさいって」
棚町「あ、ほら、それにハンカチも忘れてる」
橘「それ……誰のマネだ?」
棚町「アンタのお母さんだけど」
橘「ぜ、全然似てないよ!」
年上が好みと告げた途端、薫は間髪入れずに純一の母親のモノマネをしていますね。
普通この場合の「年上の女性」と言えば、どちらかと言えば妖艶なお姉さんキャラか……もしくは森島先輩のような「憧れの先輩」像を想起するものですが、彼からそこに関するツッコミはありませんでした。
純一と母親の関係性を間近で見たことのある薫にとって、純一の理想とする年上の女性とは彼の母親であると潜在的に刷り込まれていた、という解釈をしてみると面白いかもしれません。
極め付けは押入れプラネタリウムでしょう。
前回の記事では、失恋を皮切りに彼が他者の視線を遮断したことの象徴だと述べましたが、もう一つ大事な捉え方があります。
要するに「胎内回帰」のイメージです。
『アマガミSS』の第一話、橘純一が押入れの中で2年前の件について思い返す際、全裸で宇宙の中に放り出されるイメージカットが挿入されます。そのとき彼は自然と膝を折り曲げ「胎児のポーズ」を取っています。
気になる方はぜひ見返してみてくださいね。
ぐだぐだと語りましたが、つまり橘純一は潜在的に母性に飢えている男性であると言いたいのです。それゆえに、ややスキンシップの度が過ぎることがあるだけなんです。許してあげましょ。
②七咲逢と巨大なペンギン
スキンシップ、と言えば七咲はこんなことを言っています
七咲「……スキンシップは、主に母親と子供の間柄で使う言葉です」
このシーンは非常に興味深いですね。
これが絢辻さんの台詞ならば「博識」で済みます。
しかし七咲の口から「スキンシップ」という言葉の定義を聞くことに何か大きな含みを感じられます。
キャラクターの整合性の観点から言って、七咲には知識があったというよりも「スキンシップ」のような母と子の愛情表現について意識せざるを得なかったというのが妥当かもしれません。
単刀直入に言うと、七咲は幼い頃、両親からの愛情表現に不満を抱いていました。
そしてその代表とも言えるエピソードが「みかんちゃんとプー」についてです。
七咲「そういえば……私も小学生のとき、郁夫と同じように、寝る前にお母さんに甘えたことがあるんです」
橘「七咲が? なんだか想像できないなぁ」
七咲「『もう一度この絵本を読んで!』って一生懸命甘えても、『早くトイレに行って一人で寝なさい』って言われて終わりだったんです……」
橘「そっか……親にも色々と都合があるとはいえ、断られるとやっぱり悲しいよな」
七咲「……そうですね。それに、その時はまだ子供だったので親の都合なんてわかりませんし」
彼女は「みかんちゃんとプー」を母親に読み聞かせてもらうことが楽しみでしたが、七咲家は共働きで両親共に忙しいという事情があり、母親に読み聞かせを断られるという体験がありました。
この一件に限らず幼児期の彼女は家族に構ってもらえず寂しい思いを数多くしたのでしょう。
ここからは完全に私の憶測混じりの考察となります。
幼少期の彼女は特に内向的な性格であったと考えられます。それに拍車をかけていたのが、幼少期の彼女が病気がちだったことではないでしょうか。
七咲「ええ、私……小さい頃は体が弱くて、よく風邪を引いていたんです」
七咲「でも、お医者さんに勧められて水泳を始めてからは、随分よくなったんです」
よく風邪を引いていたこと、医師に水泳を勧められたことを踏まえると小児の気管支喘息と見るのが妥当でしょう。
その他にも七咲は自身の幼少時代を振り返ってこのようなことも言っています。
橘「小さい頃って、何をして遊んでた?」
七咲「あまり覚えてはいませんが、本を読んだり絵を描いていたと思います」
七咲「私……あまり外には出ずに、家の中で遊ぶ事が多かったんです」
事実もさることながら、ものの言い方にも注目です。
これがもし「私、外に出るよりも家の中で遊ぶ方が好きだったんです」だったらば、単にインドアな趣味の子と片付けられるでしょう。
しかし、実際のセリフは何処となく不可抗力が働いて外に出て遊んでいなかったような言い方。
それこそ喘息の症状は埃っぽい環境での運動により誘発されますので、外遊びを避ける必要があったと見るのはこじつけでしょうか。
これはあくまでイメージですが、このような事情を踏まえても幼い頃の七咲はあまり活発に交友関係を広げるような子ではなかったと推測できます。
だからこそ、なおのこと両親の愛情表現に物足りなさを覚えたのではないでしょうか。
極端に解釈するならば七咲にとっては家の中で起きることこそが全てであり、「家族」を越えるものはなかったのです。
そんな環境であれば、母親の真似事をして母性を発揮し愛情のイニシアチブを取ろうとしたとしてもあまり不思議ではありません。
そんな彼女の状況も水泳を始めてから変わりはじめます。
七咲「ふふっ、最初は嫌々でしたけどね」
橘「え? それじゃあ……」
七咲「好きになったんです。スイミングスクールに行く事が」
橘「そ、それは何かきっかけがあったの?」
七咲「はい、そこのスクールの入り口に巨大なペンギンの像があって……」
橘「もしかしてそれに会いに……」
七咲「ふふっ、単純だったんです、私」
橘「はははっ、そうなんだ」
七咲「後は、そうしているうちに他の学校の人とも友達になったりして」
橘「どんどん楽しくなっていったのか」
七咲「はい、そうなんです」
最初は嫌々だったという七咲。
どうして嫌だったのか理由は色々と考えられますが、もしかすると「体が弱い」のが改善されることが嫌だったのかもしれませんよ。
例えばのお話、彼女が体調を崩したときには両親が看病をしてくれたり、仕事を休んでお世話をしてくれたり……いつもよりも親の愛情が感じられるような体験があったのかもしれません。
皆さんの中にもご経験のある方はいらっしゃるかもしれませんね。大袈裟に言うと自らに負わせる作為症にはたらく心理に近いものがあるでしょう。
それはさておき、七咲が水泳を始めたことは彼女の人生における「ペンギン」との出会いを意味します。
はて、ペンギン?
一体何のことでしょうか。
私はこれを、幼い七咲に芽生えた自己実現の目標であると見ております。
……いや、もう象徴の話はうんざりだ!!!!
という方、大変申し訳なく存じます。今しばらくお付き合いください。
小児科医に水泳を勧められてスイミングスクールに通い始めた七咲。ある意味では「家族」から離れて活動をするその時間。
初めは嫌がったけれど巨大なペンギンの像見たさに励まされて水泳は続いたわけですが、そんな「ペンギン」が傍にあったのは何も幼少の頃だけとは限りません。
「ペンギン」が象徴するところは七咲との水族館デートで明らかになります。
七咲「少し、羨ましいですね……」
橘「え……」
七咲「これだけ水の中を自由に泳げたら気持ちいいんだろうな〜って」
また、七咲から「ペンギンのどんなところが好きか」を聞かれた時の選択肢のうち、「七咲みたいにクールなところかな」を選んだ際の展開がこちら。
橘「七咲みたいにクールなところかな」
七咲「クール……ですか」
橘「うん、何だか厳しい世界でもしっかり生きているところとかさ」
七咲「ふふっ、そういう意味でしたか」
橘「うん、すごく魅力あるよ」
ここからわかる通りに、「ペンギン」というのは水の中を自由に泳ぐことができる者であり、厳しい世界でも生き抜く(クールな)者なのです。水泳を続けている七咲にとっては常に憧れの存在であり得ますね。
そして高校一年生現在の七咲にとってのペンギンとは塚原響のことでしょう。
……何を根拠にこんな事を言っているのかということをこれからお話いたします。
塚原先輩といえばご存知の通り未来の小児科医です。輝日東高校入学後、七咲はそんな塚原先輩に勧誘されて水泳部に入りました。
その構図はまるでかつて水泳を勧められたときのリフレインのようです。
(関係ないけれど、塚原先輩が将来 小児科医になって喘息のお子さんに水泳を勧めるさまを想像するとなんとも感慨深くございませんか?)
そして入部以来ずっと憧れの先輩であり続けた塚原先輩。
橘「七咲が尊敬する水泳の選手って誰?」
七咲「尊敬……ですか?」
七咲「……たくさんいますけど、一番身近な人で言うと、塚原先輩です」
橘「ああ、塚原先輩か……」
七咲「はい、本当に尊敬できる先輩なんです。私も……あんな風になれたら」
七咲は水泳部部長という先陣を切って水面に飛び込むもの……いわばファーストペンギンである塚原先輩の影を追っているのです。
そうして水泳部員として活動を続けるうちに周囲から評価を得られるようになります。これはスイミングスクールに通ううちに友達が増えたことと似ていますね。
この辺りの符合は偶然と片付けるのは勿体ないくらい面白いものなので、仮説としてしっかりと残しておきましょう。
つまり七咲は幼い頃も今も同じ行動原理に基づいて水泳を続けているということです。
ソエンにおける彼女はまさに塚原先輩を超えて、自らが水泳部を牽引するという見事なまでの自己実現を成し遂げます。
しかしそれに対してスキ√ときたら、時に目標をかなぐり捨てる必要に駆られていることすら窺えますね。
これはなぜかというと橘純一と深く関わるにつけ、「自己実現」に対して劣勢になっていた「母性」の葛藤が発現してしまうからです。
少しだけ余談を挟みます。ここまで読んでくださった方は分かるかと思いますが、七咲逢のキャッチフレーズである「面倒見のよいクールな後輩」とは、母性の問題と(クールな)自己実現との板挟みになっている彼女を捉えた パンチのある名文句であるということです。余談おしまい。
③「七咲とお風呂に入る」ということ
逢の弟、郁夫は小学2年生。逆算すると逢が小学2年生の頃に郁夫が生まれたことになります。
つまり七咲逢は人生の半分を一人っ子として、もう半分を「お姉ちゃん」として過ごしてきたということですね。
郁夫が生まれてからしばらくして、彼女の「母性」を注ぐべき対象は父から郁夫に移りました。郁夫の面倒をみることは半ば義務であり、自分の責任であると彼女は考えるようになります。
七咲「実は、弟の郁夫がクラスメイトの女の子をいじめていたらしくて、両親が小学校に呼ばれてしまったんです……」
七咲「元々、私の両親は共働きで……昼間は私が郁夫の面倒を見ているので……」
橘「そうなんだ……」
七咲「はい、それで今度は私が両親に叱られてしまって……」
橘「で、でもそれって理不尽じゃないか!?」
七咲「そうかもしれませんが、弟の面倒は私しか見られませんから」
橘「あ……」
これは強制の「爆弾イベント」であり期日までに七咲とある程度の関係性を築かないと起きてしまう事象です。このイベントは以下のように展開します。
七咲「やっぱり、私がもっとちゃんとしてるべきだったんです……」
橘「……」
橘「本当に……そうなのかな?」
七咲「えっ」
橘「僕はそれくらいの男の子なら、放っておいて平気だと思うんだけど……」
七咲「そんな事はありません!」
橘「で、でもさ……」
七咲「あの……失礼かもしれませんが、先輩に何が分かるんです?」
橘「そ、それは……」
七咲「分かりませんよね? だって先輩は他人なんですから」
七咲「でも、私にとっては家族のことなんです。うちと先輩の家とは違うんです!」
(何だかちょっと先ほどの寺村輝夫氏の解説に出てくる「プー」と「ママ」の対立と似ている気がします)
この件に関して七咲はやたらと自罰的な態度を取りますね。七咲のストイックな性格が現れているとも読めます。
そしてこの会話には七咲逢と関係を深める上で大変重要なファクターが含まれています。
それは橘純一が「七咲家を越えられるか」ということです。
最後の捨て台詞とも言うべき二言からは、病弱だった幼少時代の価値観から彼女自身がいまだに脱しきれていないことを感じ取れます。
あるいは七咲逢本人がそうやって親に言い聞かせられて育ったのかもしれません。「うちとよそとは違うんです」と。
少なくとも郁夫が生まれてからの彼女は「お姉ちゃん」の呪縛に囚われておりました。
七咲「で、でもお姉ちゃんの私が甘えるのは……やっぱりダメですよ」
橘「ん? なんで七咲が甘えちゃいけないんだ?」
(中略)
橘「あ、あれ? またなんかマズイこと言ったかなぁ。だって、七咲は僕のお姉ちゃんじゃないだろ?」
これを見るに、どうやら七咲には七咲家内のルールでもって自分を縛っていたきらいがあるようです。
橘(本当は『自分はお姉ちゃんだから』って、いつも言い聞かせながら頑張ってるのかも……)
そんな七咲家長女としての七咲逢から彼女を解放する鍵は何か。
ここでまた『モモちゃんとアカネちゃんの本』シリーズのお話をさせてください。
先ほどお話しした「モモちゃん」には第二作目で妹が生まれます。それが「アカネちゃん」です。アカネちゃんが生まれてからのモモちゃんはしっかり者のお姉さんとして頑張ります。モモちゃんは辛いことがあっても歌を歌って我慢してきました。
「アカネちゃんは、いままで、あんまりないたから、なみだがみんな、ながれちゃったのさ。モモちゃんは、なきたくても、ずうっとがまんしてきた。
モモちゃんが三つになったころ、よくうたっていたよ。
おねえちゃんだもん
大きいんだもん
おかおだってあらえるし
おつかいだって、できるのよ
七咲逢もまた、きっとこのように自分に言い聞かせながら涙をひとには見せないで生きていたのでしょう。
それがあのプールに飛び込むイベント(13, 45)につながるのです。
橘「僕、ずっと七咲を見てて思ったんだ……」
七咲「ずっと……」
橘「うん、七咲はさ……頑張りすぎなんだよ。きっと、もっと楽をしてもいいんだ」
七咲「……」
何が頑張りすぎって、涙を見せない生き方のことです。
水中に飛び込み、自己実現の目標の中に自分の涙を埋もれさせることで辛いことをうやむやにするのがこのとき彼女にできる精一杯のことだったのでしょうか。
ここにおいて極めて大事なのは、橘純一こそが七咲逢のことを初めて「ずっと見てた」人物であるということです。
『アマガミ』における「見る」ことの重要性については前回の記事などで詳しく触れていますので、今回は一旦「ずっと」の方に重きを置いてみましょう。なにせ七咲が復唱するほど強調されていますからね。
七咲を語る上で外せないのが神社の「二期桜」でしょう。(また象徴)
「アコガレ」の放課後イベントで「七咲が見せたいもの」として橘純一に紹介してくれます。
これは七咲逢のキャラクターソング『trust』の歌詞にも登場する超重要アイテムです。
桜咲く特別な場所を大切な人に教えたい
季節を越えて出会えたよ
それは偶然じゃないと信じてる
同じ想いで見上げていたい
(なお余談ですが高山先生のTwitterによれば、茨城県千波湖の畔にある二期桜がモデルのようです。千波湖といえばスキBESTの花火大会のモデルも千波湖近辺だそうですね)
二期桜とは要するに真冬にも花が咲く桜の木なのですが、それを橘先輩はこう評します。
橘「これ……すごく控えめに咲いてるからさ、有名じゃないのも仕方ないよ」
橘「気付かない人は気付かないと思う」
橘「でも、だからこそ……なんだろうな。すごく魅力的で、つい見入っちゃうよ」
(中略)
七咲「先輩、桜に興味があるんですか?」
橘「いや……えっと、どう言えばいいかな」
橘「何だか、七咲ってこの桜に似てるな〜って思ったからさ……」
七咲「え? 私が……ですか」
橘「うん」
橘「ほら、七咲だって冬でも一生懸命泳いでるじゃないか」
歯の浮くようなセリフですが、おそらく七咲というキャラクターのコンセプトがここに如実に現れていますね。
そもそも11,12月の日本を舞台にした恋愛SLGに「水泳部」を前面に押し出したヒロインが登場する意外性に、私たちは立ち返るべきなのかもしれません。
密かながらに活動を続ける冬場の水泳部と彼女の精神性はどこか響き合うものがありますからね。
彼女の繊細な心の動きや葛藤に気付けるのは、それこそ「ずっと」傍で彼女を見続けるひとでなければなりません。華々しい一瞬のみを見ていたのでは気が付かないということ。
これまで彼女の人生の中で彼女の「面倒見のよい」部分と「クールな」部分の両方を見つめていた人物は、限りなく少ないのではないでしょうか。
ゆえに七咲の葛藤を知るものはいませんでした。もちろん「ずっと」見ている時間のなかった彼女の両親もこれを知りません。
そんな相手が現れることを小さい頃から待ち望んでいたのでいたのかもしれません。
橘純一はプールの中、自分こそが七咲を「ずっと見てる」ものであることを証明し、七咲は心から彼に信頼を寄せるようになるのです。したがってあのイベントが星獲得(クリスマスデートに誘う)には必須のイベントであるわけですね。
水泳に身が入らなくなるスキ√は「バッドエンド」でしょうか。
確かに ソエンのように、小さい頃からの目標に直向きで、憧れの塚原先輩からも認められる……という、絵に描いたようなサクセスストーリーが可能性として用意されていますから、プレイヤーの操作する橘純一の手によって七咲が堕ちていくように映っても仕方のないことです。
しかしその成功は花の盛りに満開になった桜の美しさなのです。七咲にとって水泳選手として大成することは手帳をひた隠し、仮面優等生として生き続ける絢辻さんと同義なのです。
これがソエンの憎いところでして、如何に偉業を成し遂げようと、それは「他者に流されて生きている」彼女たちの像と言えるのです。
あなたが「他者」だからこそソエンになったヒロインたちの現状を高く評価しなければならないのですよ。言い換えるならばそんなふうに高く評価しているあなたたち大勢の「他者」によって生き方を決められた姿なのですから。
けれどもあなたが操作する「橘純一」はもはや他者ではないんです。
実際、〔他者から見れば〕堕ちていたとしてもスキ√の方がよりヒロインたちの本来性に近い像を結んでいると言い切れましょう。
橘純一と関わることで彼女らは「……一方その頃」というイベントを経て自問自答し、葛藤の末に彼と生きる生き方を選び取ったのですよ。
だからスキ「BEST」が存在するのです。
……というのが私の持論です。
以前、高山箕犀先生がご自身のTwitterにてこのように投稿してらっしゃいました。
アマガミのソエンでヒロインが全員成功するのは、ヒロインの成功する未来を犠牲にしても結婚する覚悟を持って欲しいという俺の考えでそうなってます。
特に七咲編のシナリオを手掛けた高山箕犀先生がこうおっしゃることには『アマガミ』という作品自体のコンセプトがこの思想に基づいていると思わせますね。
さて二期桜に限らず、七咲のシナリオは特に「隠れていたものを見つける」ことが強調されています。それは衝撃の出会いから秘湯温泉までずっとです。
ここから少し彼女とのクリスマスデートのお話をしましょう。
先ほど「七咲家を越えられるか」が鍵だと言うお話をしましたが、少なくともゲームクリア時点では越えていないんじゃないかな……?
と言えるのが、「ナカヨシ」エンドです。
こうして私たちは恋人という関係になった。
……と言っても、正直なところ、今はまだその実感はない。
あるのは……郁夫と一緒に、この頼りない先輩の面倒も見てあげなきゃという思いだけ。
これから一緒に過ごす残りの学校生活を楽しいものにしていくために。
勿論、チャンスがあれば、少しは甘えさせてもらうつもり。
先輩は私の彼氏で、私は先輩の彼女なのだから。
七咲の独白がやけにツンツンしているのが愛おしいところですが、「これから一緒に過ごす残りの学校生活を」という生々しい言葉は付き合いたてにしてはリアルすぎて逆にリアリティに欠けるのではないかと思うほどです。(何を言っている)
そして特に郁夫と一緒くたに括られているのは見逃せません。
確かにこれでも十分に愛されているのでしょうが、橘純一の扱いが〔七咲家の文脈において〕面倒を見なければならない「母性」の対象に加わったにすぎないとも言うべき状況です。
つまり世に言う「彼氏彼女」の関係なのだから甘えることはあるかもしれないが、という冗談めかしたエクスキューズこそあれ、「お姉ちゃんだから甘えてはいけない」というような根本的なしがらみからは解放されていないのではないでしょうか。
アマガミの「ナカヨシ」と「スキ」はどちらも大変に素敵なルートなのですがヒロインの葛藤に対する深達度のようなもので言うとやはり「スキ」に軍配が上がります。
さてプールの一件により、彼女はしがらみから解き放たれる糸口を掴みました。
そんなスキ√では、七咲の誘いを受けて温泉に入ることになります。
いや、その前に大事なことが一つありましたね。
七咲「イヴの予定……ですか?」
(中略)
七咲「多分、今年も去年と同じで、家族と一緒に過ごすと思いますよ」
要はこのイベント(16, 42)の有効期間であるクリスマスイヴ二週間前の時点では24日は家族と過ごすはずだったという事実を確認しておくことが大事なのです。
つまり橘純一とのクリスマスデートはあったかもしれない家族との予定よりも彼との約束を優先させることを意味します。
また、スキBADにて郁夫の口から(?)次のように語られます。
郁夫「…………っ!!」
橘「えっ!? 何? お姉ちゃんは遊びに行って家にいない?」
郁夫「…………」
橘「し、しかも『今日は帰ってこないかもしれない』だって!?」
郁夫や両親を家に残して橘純一との(温泉)デートに出かけていること、弟に朝帰りを宣言していること、どの角度から見ても七咲家の文脈から逸脱しています。
それに「1ヶ月ちょっと前に出会ったばかりの異性の先輩と2人きりで、山奥の温泉(混浴)に入ってくるね」なんて両親に打ち明けるはずがございませんから、この言い方が適切かは分かりませんが、ちょっと家族を裏切っているんです。
さて、温泉に入るというスキBESTエンドは単なるお色気イベントなのか、というお話です。
七咲と「お風呂に入る」ことは何を意味するのか。
それはやはり「お互いのすべてを見せ合いたい」だとか、「プールに飛び込んだときの再現だ」だとか色々あるでしょう。
七咲にとってはお互いが裸であることにこだわりがあったようで、水着を着ていると言っておきながら事実タオルの下には何も身につけていませんでしたし、橘純一のタオルを引っ張って奪い取ろうとすらしています。
七咲「いいじゃないですか、隠しきれなかった気持ちを着てるんですから」
七咲「何も問題ありません」
七咲「いいんです。私、先輩の事が大好きですからっ!」
これは名台詞ですね。
彼女との出会い(30, 34)との対比になっているわけです。
女の子「別にいいですよ……見られたところで 私、何とも思いませんから」
つまり序盤は水着を着ていないように思われる状況で実際は水着を着ていたわけで、見られても〔水着を着ているから〕「問題ない(何とも思わない)」と。
これが終盤になると今度は水着を着ていると思わせた上で実際は水着を着ていない、でも〔大好きという気持ちを着ているから〕「問題ない」と。
どちらも可愛らしい詭弁に見えますが、それはさておき「問題ない」の理由が変化するシナリオであることに意味があるのでしょうね。
この部分はすでに多くの人が語っていることと思われますので、今回は少し別のところに焦点を当ててみたいと思います。
七咲「家族以外に名前で呼ばれるのは初めてですが、先輩でしたら……」
先ほどからずっと述べていた「七咲家を越えられるか」の観点で見ると、いかがでしょう。この期に及んで彼女の口から「家族」という言葉が出てくることに何か重大な意義を感じてなりません。
そもそも異性とお風呂に入ることは、家族とお風呂に入ることなのです。
橘「な、七咲は……弟と一緒にお風呂に入ったりするの?」
七咲「えっ? ええ、まぁ……」
七咲「まだ、一人で頭を洗えませんからね。誰かが一緒に入ってあげないと……」
ありがちなお話ですから変にこじつけるのも気が引けるのですが。
せっかくなのでもう一つ、家族とお風呂に入ることについて語られている箇所をピックアップしましょう。
橘「な、なぁ……七咲はいくつまで男湯に入ってたんだ?」
七咲「……はい?」
橘「いや……ほら、子供の頃って父親と銭湯に行くと、男湯に入らされたりするだろ?」
七咲「……」
七咲「先輩、いきなりそんな話をするなんて、どういうつもりなんです?」
橘「ははは……ふ、深い意味はないんだ」
少しわかりづらいですが「……」の箇所で七咲は赤面します。その後の返答も含め何処かはぐらかされたような感じがしますね。少なからず心当たりがあったのではないでしょうか。
ぐだぐだと述べてまいりましたが、つまり七咲とお風呂に入ることは肉体の交流として「郁夫」を越え、そして何より彼女の「父親」を越えることだったのではないかというのが私の結論です。
彼女の言う「信頼」とは、根源的に父性に寄せられるものなのではなかろうか。
本当にちょっとした余談ですが、スキGOODでは鹿に妨害されて温泉は取りやめになりますよね。
鹿は「子宝」の象徴でしたっけ。
④アイちゃんのなみだの海
『逢の子守唄』は橘純一が七咲の大好きだった「みかんちゃんとプー」を読み聞かせるシーンで幕を下ろします。
橘「……こうして今日もみかんちゃんは、プーのおなかの中で元気にすごしています。めでたし、めでたし」
七咲「……」
橘(う〜ん、なんだか不思議だ……絵本って、子供の頃に読んだ時と今読むのとじゃ、まるで印象が違うんだよな)
橘純一がこう思う理由が『みかんちゃんとプー』の物語にはあったのでしょう。
残念ながら私たちは作品の内容を読むことができませんが、ご存知の通り元ネタが存在します。元ネタをあたれば内容のヒントが得られるのではないでしょうか。
ええ、そうなんです。実在する『モモちゃんとアカネちゃんの本』もまた子供の頃に読んだ時と今読むのとじゃ、まるで印象が違う作品として有名なのです。
少しその内容に触れていきましょう。
シリーズの三作目『モモちゃんとアカネちゃん』で描かれているのは、なんと両親の離婚なのです。
「ママ」はある日気がつくと「パパ」が見えなくなっていたというところから話は始まります。
夫が帰宅したかと思えばそこには「くつ」しかなく、翌朝には「くつ」が家を出ていくという日々が続きます。
あるとき「プー」が「ママ」にこんな問いかけをします。
「くつはごはんをたべないでしょう?」
「ええ、まあ、そうね。」
ママがいいました
「それから……くつはおふろにはいらないでしょう?」
「ええ、まあね」
「それなのに、なぜママはおきているの。くつのために、ごはんよういしといて、くつのために、いつでもはいれるように、おふろわかしとくの。」
「プー」が「ママ」の分身とするならば、これは夫婦生活の葛藤に対する自問自答と見て良いでしょう
お話は続きます。
ママは、かんがえました。
「だってね、きのうも、そのきのうも、パパはくつしかかえらなかったけれど、きょうのばん、もしくつだけじゃないパパがかえってきたらば? そうして、おなかがすいてたら、こまるでしょ。おふろがあったほうが、うれしいでしょ。」
「へええ。」
プーは、しっぽをぱたんとふりました。
「それは、パパのためなの?」
「そうねえ。」
ママはまた、かんがえました。
「パパのためかもしれないし、そうでないかもしれないわ。ただ、こんなふうにしているほうが、気がすむのよ。」
その後「ママ」はときどき「パパ」が「おきゃくさん」を連れて家に帰ってくることについて言及し、やはり家事をしないわけにはいかないと言います。
「でしょう? だから、やっぱり、あんまりはやくしめちゃ、わるいじゃない?」
「レストランじゃないのにねっ。」
プーは、すこしおこったようにいいました。
「レストランじゃないからなのよ。ここはおうちなんですもの」
「ママ」は「おうち」が壊れてしまわないために「パパ」と別れられないでいるのです。
やがて「ママ」のもとに「死に神」が来てしまうほど事態は深刻になります。
すんでのところで、生まれたばかりの「アカネちゃん」に助けられ「ママ」は生き延びることができましたが、「ママ」の心はますます追い詰められて行きます。
そこで「森のおばあさん」に相談することに決めました。
彼女は魔法使いのように描写されますが、実際は「ママ」の身内の人物かもしれません。
「くたびれました。死に神につれていかれてもいいと、ときどきおもいます。」
ママはいいました。
「わかっているよ、なぜくたびれたかも、わたしにはわかっている。」おばあさんは、だんろのよこにおいてある、うえ木ばちをゆびさしました。そのはちには二本の木がうえられていました。そのどちらの木も、かれかかっていました。
「こっちの木がおまえさんで、こっちの木がお前さんのごていしゅさ。」
おばあさんはいいました。
「みたとおり、どちらもかれかかっている。」
ママは、おばあさんをじっとみつめました。
「死に神がきたせいで、かれかかっているのではないんだよ。くたびれて、かれかかってきたから、死に神がやってきたのさ。」
おばあさんのたとえ話には、一つの植木鉢に植えられた二本の木が登場します。一方は「ママ」、もう一方は「パパ」を表しているようです。植木鉢とは家庭であり「おうち」のことでしょう。
おばあさんは、うえ木ばちをもって外へ出ました。そして二本の木をひきぬくと、よく根っこをあらいました。それから森の土をほって、二本の木をべつべつにうえました。
するとママの木は、みるみる、たれていたはっぱをしゃんとさせ、生きかえり、すくすくとのびはじめました。
ところが、パパの木はちがいました。やはりかれかかったはっぱは、しゃんとしましたが、あるきはじめたのです。
「木が、木が……あるいていくわ!」
ママは、かおをおおいました。ひどくこわかったのです。
「そうさ、おまえのごていしゅは、あるく木なんだよ。そこをしっかりみなくちゃいけない。」
ママは、あるく木をみつめました。木は、かたのあたりに、やどり木をのせていました。やどり木は、金いろにかがやいていました。かがやくやどり木をのせて、根っこをひきずるようにあるいていくパパの木は、いばっているようにもみえ、さびしそうにもみえました。
「そうして、おまえさんはそだつ木なんだよ」
ママは「そだつ木」で、パパは「あるく木」
同じ植木鉢の中にいると根っこが絡まってお互いがダメになるとおばあさんは言います。
ママも「やどり木」のようにパパの肩に乗っかって生きることができればそれでも良いでしょうが、ママにはそれができないとおばあさんは告げました。
この「やどり木」とは何か。当時の著者の状況を鑑みるに、多くの読者はこれを「パパ」の「不倫相手のメタファー」と捉えているようです。
夫婦関係がここまで冷え込み、「ママ」の精神が追い詰められた背景には「やどり木」の影があったということです。
話をアマガミに戻しましょう。
私が『モモちゃんとアカネちゃん』を引き合いに出した理由はここにあります。
七咲逢という二期桜は、まさしく「そだつ木」であり、橘純一は「あるく木」なのです。
先程の「ママ」と「プー」の対話はスキBADにおける七咲逢の葛藤そのものかもしれません。
久しぶりに来た……冬の浜辺。
そういえば……前にボランティアで
清掃に来た時もこんな寒さだったな。
肌に触れた風が痛いくらいに冷たくて、
身体の芯から凍えていくような……。
…………。
だけど、今は違う。
ちょっとだけ……温かい。
冬の浜辺でたった二人、膝枕の状態で佇んでいる七咲と橘純一。
少々トラウマティックな絵面ではありますね。
しかしどうして二人は海にいるのでしょう。以前、清掃のボランティアに来た時に七咲はこんなことを言っていました。
七咲「……いい匂いだと思いませんか?」
橘「え?」
七咲「冷たい潮の香りって」
橘「冬の海の匂いがって事?」
七咲「そうですね」
七咲「何だか……懐かしい温もりを思い出させてくれるような気がするんです」
七咲「もしかすると、海に沈む夕日がそう感じさせてるのかもしれませんけど」
言いようもないノスタルジーに浸る七咲。
冬の海、というのがまた二期桜と同じ文脈を感じます。
彼女は水泳部のボランティアと称していますが塚原先輩曰く、七咲単独で清掃に赴くこともあるようです。
一体どうして彼女はそこまで海辺の清掃にこだわるのでしょうか。
これまた私の憶測が大いに含まれますが。
押入れプラネタリウムのお話と同じ理屈でして、海に行くというのもまた「胎内回帰」の願望を反映したものとして象徴的に描かれることの多いテーマなんですね。
だからこそ冬の吹きさらしの浜辺で温もりすら感じるのです。
海辺を掃除することは彼女にとって母性に触れることそのものかもしれません。
七咲「料理や裁縫はできるかもしれませんけど、掃除や洗濯はちゃんとしてますか?」
上崎「え?」
七咲「服の袖にホコリが付いてますよ。どこかホコリが溜まってる場所が身近にあるんじゃないですか?」
これは七咲の母性が増幅されているモードのとき上崎裡沙に言い放った言葉です。
特にお掃除に関して厳しい母性の七咲。
その背景には彼女が小さい頃に喘息を患っていたことが多少なりとも影響しているのではないかしら。
ホコリが彼女の身体に障らないように母親は特に室内の掃除を念入りに行っていたのを見ていた……とか。(盛大なこじつけ)
結局、自分の想いを捨てきれなかった私は、先輩の気持ちを受け入れる事にした。
それがどうしようもなく甘い事くらいは、分かっているつもりだ。
だけど……私はもう一度だけ先輩を信じてみようと思う。
自分にとって、かけがえのないこの人を
もう一度だけ……
七咲にとってスキBADで訪れた冬の浜辺は、やはり七咲家の「母性」に浸っているということです。
彼女が先輩を受け入れたことは「おうち」を守る「ママ」の気持ちと同じく「ただ、こんなふうにしているほうが、気がすむ」だけなのかもしれません。
七咲「先輩の為なら…‥構いませんよ」
七咲はこう言いますが、実際のところ「先輩のためかもしれないし、そうでないかもしれない」のでしょう。
一度は彼を家族以上の存在に認めてしまうほど「信頼」してしまった彼女は、もう橘純一を他人と据えることが恐ろしくなってしまったのかしらね。
二人で誰からのまなざしも届かない「冬の浜辺」に閉じこもることにしました。
橘純一はというと、彼は彼で七咲逢という新しい「押入れプラネタリウム」に閉じこもるのです。
どちらにも共通しているのは「少し、温かい」ということです。
橘「……こうして今日もみかんちゃんは、プーのおなかの中で元気にすごしています。めでたし、めでたし」
ここまで読むといかがでしょうか。この一文で締め括られる物語が如何に恐ろしいものかと。
⑤『モモちゃんとアカネちゃん』と『アマガミ』と
ここまで読んでくださって誠にありがとうございました。
以下、私が『アマガミ』において『モモちゃんとアカネちゃん』のエッセンスを感じる要素を箇条書きで並べたものになります。
今回の記事ではまとまりきらなかったものの、ひょっとすると『アマガミ』を読み解く上で大きなヒントがまだまだ眠っているかもしれません。
ぜひ皆さまにも手伝っていただきたく存じますので、『モモちゃんとアカネちゃんの本』シリーズを読んで教えてね。
・美也の部屋の本棚に「みかんちゃんとプー」がしまわれている。
美也も黒猫にまつわるキャラクターですし、美也ルートでは特に父親と風呂に入るなどちょっと異様なさびしんぼうであることが強調されています。彼女の人格形成と この絵本に関連性はあるのでしょうか。
・『モモちゃん』の隣の家の庭に住んでいる犬は「ジョン」という。
ジョンなんてどこにでもいる犬の名前でしょう。こじつけるのも大概にしてください。
・「ジョン」の犬種はグレートピレネーやセントバーナード(原文ママ)
ちょっとこれは目を疑いました。本当に申し訳ありませんがこの情報のソースを手に入れることが出来ませんでしたのでWikipediaの記述をそのまま載せました。
何をそんなに驚いているかというと、梨穂子のイベントにこんなセリフがあるからです。
桜井「えと……犬はどんな感じ? セントバーナード? グレートピレネー? それともミニチュアダックス?」
橘「ミニチュアダックスは小型犬だろ? あとピレネーじゃなくてピレニーズ」
そうなんです。なぜか梨穂子が「原文ママ」な言い間違えをしているのです。
これはひょっとすると梨穂子もまた「みかんちゃん」シリーズの読者かもしれませんし、こうなってくるとジョンの飼い主だった森島先輩も怪しいですね。
・あまり脈絡なく純一に靴下をプレゼントする棚町薫。
ナカヨシのとき誕生日に貰う靴下のことです。これはですね「タッタちゃんとタァタちゃん」という「アカネちゃん」が生まれた時から大事にしていた靴下のキャラクターがおりまして、「ママ」が知人に譲ってしまうんです。
「アカネちゃん」はそれに大激怒、「モモちゃん」は「ママ」に対して
“タッタちゃんとタァタちゃんをあげたみたいに、パパもあげちゃったの?”という鋭い一言を浴びせます。
それとこれと関係があるのかは分かりかねますが、両親の離別をテーマにしているといえば薫ですから、ここから色々と考えてみるのも面白いかもしれません。薫は他にも「床屋さんごっこ」「階段落ち」など『モモちゃん』の匂いがする要素がございます。
まだまだ探すとたくさんありますが、今回はこのくらいにしましょう。
結びになりますが、今回の記事の投稿が期日に間に合わなかったことをたいへん口惜しく感じております。
あれもこれもと要素を詰め込んだ結果、2万文字の読みづらい怪文書が出来上がってしまいましたの。
期日といえば、七咲は『アマガミ』の発売日を延期したおかげで実装が叶ったキャラクターだそうです。
彼女の誕生日の翌日というこの良き日に、七咲逢の生を祝福することができますことは無上の幸福でありましょう。
高山先生曰く、『アマガミ』のプロジェクトは七咲に始まり七咲に終わったとのこと。
アマガミというコンテンツはまだまだ末長く続くのですから、私たちも彼女の良き「先輩」としてともにありましょう。
おしまい。
七咲「ふふふっ、先輩……これからもよろしくお願いします」