受け入れがたい単語

見たり聞いたりしたときに自分のなかに何かしらわき上がる思いとか反応とかが出てくる単語っていうのがあります。
8割以上の単語には何の思いも反応も出てきてないだろうと思います。反応する単語が2割のうちの半分以上は私の場合『その使い方あってんのかな?』という文章上での違和感とか、好きじゃない言い回しとかに対する抵抗とかだと思います。

で、今日。私のなかにいろんな思いや反応がわき上がってくる単語のひとつをつきとめました。


『リーダーシップ』

言葉じたいに是非はあるはずもなく、私もこの単語を単体でみたときには他の単語同様にスルーしています。

それがどうでしょう、『あなたのやるべきことはリーダーシップを発揮することです』『あなたの統率力、リーダーシップで組織をどうのこうの』と言われたときに突如わき上がるモヤモヤ感。

うわぁぁぁ聞きたくない聞きたくない!
もういい、見たくない見たくない

自分のこととしてアドバイスされるとそこだけは耳を塞ぎたくなる。指摘されると凍りつく。
私がこんなふうに感じるリーダーは文字通りのリーダー、指導者、先陣を切る者。人を率い、まとめあげる者。

それを役割だとか使命だとか言われたときに、
これまでも本当はいつも、どうしようもない感覚に苛まれていたことを知ったのです。
そんなこと言われても無理なのに。
私にできるはずがないのに。

小学校時代から、学級委員をたびたび『押し付けられて』いた。みんなは私に『押し付けた』にもかかわらず、陰口を言い、よそよそしくなり、無視をした。引き受けたくなんかなかった。興味も関心もやる気もなかった。先生も一緒になって私に『押し付けた』。サポートしてくれる人なんかいなかった。学級委員を引き受けたことによってできたいい思い出なんか、ひとつもなかった。
私にとってリーダーをやるっていうのはそういう記憶だ。

そんな私も大人になり、誰かリーダーのもとで仕事するのが当たり前になった。仕事がしやすいリーダー、ものわかりのいいリーダー、相談にのってくれるリーダー、人を育てるのがじょうずなリーダー、いろんなリーダーがいる。逆もしかり。
客観的にリーダーについてみることも考察することもできるのに、自分が、となると途端にそれは話が違いますと言いたくなる。

自分の人生を自分がリーダーシップをとって動かしていくという考え方にはおおいに賛同するけれど、

人を率いるリーダーについて、それを自分が引き受けることについての私の気持ちは
小学生時代にズタポロになったまま、じくじくと痛み続けている。

これだって幼少期からの両親との関係性とかと同じで、言いたいことがあるのは私のなかにいるインナーチャイルドなんだ。
親に文句が言いたいわけじゃない、
では、どうするか。

私に学級委員を押し付けた同級生を一人ずつ見つけ出しては謝らせるなんてことがしたいわけじゃない、そのとき一緒になって押し付けた先生のことを今さら責めたいわけじゃない。
では、どうするか。


ゼロリセットしてから眠ります。

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