縦の糸と横の糸 結節点としてのわたし
「集活」関連で講演をするさい、ここ数年、「枕」に使っている歌がある。中島みゆきさんの「糸」だ。
私はこの曲を集活ソングだと勝手に解釈している。特に「縦の糸はあなた 横の糸はわたし」の部分だ。会うべき糸に出会うことが幸せであり、二人の出会いによって生み出されるものが、いつか誰かを暖めたり、傷を癒したりするかもしれないという内容。とてもステキな歌で、大好きだ。
この縦と横を逆にして「縦の糸はわたし 横の糸はあなた」と言い換えて、講演ではお話しする。どういうことか。
私たち一人一人は関係性の中で生きている。「私」には多様な「顔」があると言い換えてもいい。関係性の数だけ顔がある。父親としての顔、大学時代の友人たちと向き合うときの顔、同好の趣味の人たちと会うときの顔…。いまを生きる人たちとの関係性、縁が自分というものを形成している。これが横の糸だ。
縦の糸は、時間軸上での自分という存在のことをいう。人は誰にも必ず両親がいて、その両親にもまた両親がいてと、いわば「ご先祖様」からの生命の連なりの中に自分という存在がある。かつてこの世に生きていた人たちがつくりあげたこの世で何かの役割を果たす存在としても、縦の糸に位置づけられている。
子どもがいればそれは次の時代、未来へとつながるわかりやすい縦の糸だが、子どもがいなくても未来へつながる糸は続いていく。それはたとえば、家業や技術伝承といった形かもしれないし、仕事で残した何かかもしれない。友人ら「横の糸」の関係性の中で相手に与えた何かが未来へ影響を与えていく可能性かもしれない。もしくは「遺贈寄付」のように、自分の死後に意志を残し、それが次世代のために役立つことは、わかりやすい縦の糸の一つだろう。
縦と横の糸が交わる結節点こそが自分という存在だ。横の糸が細く、少なくなるのが無縁化や孤立化だ。縦と横、両方の糸を太く、増やしていくことが他者を暖める可能性を高くする。それが幸せにつながるのではないか。そんなお話をさせてもらっている。