人生会議とは何か? 関係性の再認識ととらえ直し 人生を充実させるための機会に
立教大学社会デザイン研究所で私が主宰している勉強会で、「人生会議とは何か」をテーマに対話した(議論でも会話でもなく対話)。ファシリテーターはライフ・ターミナル・ネットワーク代表の金子稚子さん。写真はそのさいのホワイトボード(一部加工)。なかなか話の展開が面白かったのだが、あらためて感じたのは、つまるところ「人生会議」とは関係性の再確認やとらえ直しではないかということだった。そこを基軸として以下、出てきた話などをもとに思ったことを少し。話題を思い出しながらなので、文章の流れに少しヨレがあることをあらかじめお詫びしておく。
社会の個人化を背景に
そもそも終活にしても人生会議にしても、そこまでライフエンディングに関して自分の意思をしっかりもたなければいけないと有形無形にいわれるのは、社会の個人化が背景にある。「しがらみ」にも転じうるコミュニティや家族など「つながり」から自由になったことの裏返しで、あらゆることが自己決定に委ねられてしまう(拙著「終活難民」参照)。対話では「(人生会議って)決められないことをなんだか社会から責め立てられているように感じてしまう」という発言があったのだが、まさにそうだと思う。おそらく、あの人生会議広報ポスターが炎上したのも、「強制」「脅し」と感じて反発する人々が少なくなかったのが一因だった。
中途半端な個人主義
そもそも日本は中途半端な個人主義だという発言もあった。日常的には意思決定の尊重などがほとんどなされることなく、同調圧力が強く、場の空気に委ねることをよしとしている一方、ところどころで妙に自己決定が強調される。人生会議はまさにその「ところどころ」になってしまっているのではないかと思う。「アイスクリームで無理にでもバニラかチョコがいいかを決められないとダメなのが自己決定を徹底する個人主義。でも、どっちでもいい、という選択だってあってもいい」という話だ。わたしは人との関係性や生きること自体に「あわい」の部分があるのは当然だと思っているから、なんでも白黒つけるとか、決めるはやっぱりどこか違うと思っている。生の部分で自己決定を尊重するわけでもないのに、死の部分だけいきなり自己決定を強いる理不尽さも感じる。
日常生活の関係性の中で
日常の会話、付き合いの中でおのずといろいろな価値観の認識や共有、「自分とは違うなあ。でも、ありかなあ」といった関係性ができる。そこがあれば、わざわざことさらに「人生会議」なんていわなくたっていい。わたしは、自身の「終活」はなんでもかんでも自分で決めることはしたくないと思っている。最終的に、「あとは任せた。よろしく」と家族や友人にいえるようにしておきたい、そんな関係を紡いでおきたいと考えている。死後のことは最終的には自分ではどうしようもないのだから、遺された側の満足がいくような行為や選択の余地、それこそあわいの部分を残したいと思っているからだ。そもそも「全部」を決めるなんて考えたら、肩ひじ張ってしまい、周囲の人を遠ざけてしまいそうだ。対話の中では、自分が親にする姿を子どもにみせることが言葉で語ることよりも大切なのでは、という意見もあった。
決めなくてもいいから、いっぱい話をしよう
もちろん「人生会議」を国がわざわざACPの愛称として提示し、推し進める社会的背景には、本人が意思表示できず、家族などもいない人たちの治療方針に悩む医療現場の現実があることはわかる。だから医療・看護や介護といった家族以外でライフエンディングステージにかかわる人たちが関与できる意味で「会議」となったであろうことは理解する。
とはいえ、一般的に「会議」というものが何かを決める場であることからすれば、やはり自己の意思表明によって特に医療方針について決めておくニュアンスが言葉としてもどうしても漂ってしまう。ACPというものがそもそも自己決定を重視する欧米から入ってきたこともあり、ある意味当然ではあるのだが、でもそこにあえて「人生会議」という日本独自のネーミングをしたからには、日本ナイズする部分が当然にあっていいと思う。
愛称決定に選考委員としてかかわった福井のオレンジホームケアクリニック理事長・紅谷浩之さんは「決めなくてもいいから、いっぱい話をしよう」と、人生会議が決定の場ではないと様々な場で発信して、動画も作成している。わたしはまさにこれこそが日本ナイズされたACPつまり「人生会議」だと思っている。自己決定に委ねきるのではなく、家族や友人らとの関係性の中から紡がれてくる空気というかあわいの部分を活かしていく。とはいえ、多くの医療者はそうは受け止めていないのが現実だ。
医療費削減の手段になりかねない懸念
しかも、診療報酬に乗せる動きも出て来たので、ますます厄介な方向、つまり事前指示書(AD)作成のために「会議」を一定回数開けばいいんでしょ的な方向に進んでしまうのではないかと懸念する。そうするとそれが現状では「無駄な延命治療はいらないです」(そもそも無駄という言葉を使った時点で、誘導が入っているわけだからフェアな言葉使いとはわたしは思っていないのだが)と表明することを当然のようにしている「空気」がこの社会にあることから、自然と医療費削減に向かっていく。紅谷さんがいうような人生会議が本来目的としていたであろう方向性からズレた方に知らない間に目的がシフトしていく…。
臓器移植との対比で考える意見もあった。臓器移植は移植してもいいという本人の意思表示が確認できなくても、家族の同意があればできるようになっている。でも、いわゆる延命治療の場合は本人の意思が重視されるというACPにつらなる主張。なにか引っ掛かりを感じてしまう。おそらく先ほど述べた「誘導」と、結果としての医療費削減というなんとなく衣の下の鎧が透け見えてしまうからなのではないだろうか。
そもそも人生会議とは何かを知らない人たちには?
目からうろこだったのは、そもそも「場」を変えて人生会議をしようといったらどんな話し合いになるのか、という意見だった。今回の対話メンバーはほぼ全員がライフエンディングに何らかの形でかかわっている研究者や企業人やお坊さんだった。いわずもがなの当然の前提として「人生会議」とは「死」にかかわるものだという前提で話が進んでいた。だが、そもそもACPのことなどよく知らない人たち(「炎上」の一件でそれなりに知られたろうけれど、まだまだ認知度は低いし、内容についてよく知っているという人はほとんどいないと言っても間違いではないだろう)に、ポンと「いまから人生会議をします」といったらどういう反応を示すのだろう?
たとえばファッション業界の人たちに「人生会議をはじめます」といったらどんな会話が始まるのか? 人生という言葉から何を思い、会議という場で何を話し決めていくのか。なんだかとても新鮮な意見だった。ともすると、私も含めてだが、医療・介護など「死」にかかわる人たちはそんな視点が抜け落ちているように感じた。「人生会議」になんの注釈もつけず、自由な発想で進めれば、それはおそらく「治療方針の決定」などではなく、結婚についての悩みだったり、就職・転職についての相談だったりするのではないか。つまり「生きていく」ために、「人生を歩んでいく」ために、直面する課題や悩みをなんとかしようという方向に向かうのではないか。そう考えたら「人生会議」って悪くない。
せっかくなら人生の充実のために
そんな、せっかくの「人生会議」を医療者だけに任せてはいけないというか、それはもったいないことだと感じた。様々な人たち、様々な場で「人生会議」が語られていくことで、私たちの人生を<死ぬまで>生きぬき、充実させていくきっかけにしていきたいと思った。子どもからお年寄りまで、意思表明が難しい人でも「そこにいる」というだけで周囲に「無言の語り」をし、何かを与えることはできる。「会議」にはだれでもいつでも参加できるのだ。この国に生きるすべての一人一人の人生を充実させるためにこそ、「人生会議」が使われるようなってほしい。そう思った。
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