宇宙寺院は「寺」なのか?
寺の「機能」ってなんだろう? 京都の醍醐寺が人工衛星に「宇宙寺院」を開くという記事を読んで違和感を抱いている。記事によると、人工衛星に本尊となる大日如来像や曼荼羅を搭載し、衛星軌道に打ち上げて「寺院」とするという。
訪れることのできない、まさにただ仰ぎ見るだけの対象(モノや建物)は寺なのだろうか? それは、博物館のガラス越しにみる仏像とあまり違いがないように感じてしまう。寺は、仏道を求める人が集ってこその「場」ではなかったか。それとも「寺とはありがたい場所なのだ。衆生は来なくていいから、遠くからありがたく拝むべき対象」というのが寺の定義になったのだろうか。寡聞にして知らない。
初期仏教では偶像崇拝は避けられていたが、時代が進むにつれ信仰の対象として仏足石や仏像が生まれた。私も仏像には手を合わせるし、仏像をみるのも好きだ。だが、「仏像がある場所=寺」ではないことは、博物館ひとつとっても明らかだと思う。
人が集ってこそ
寺の機能とは、人が集う場としてあることだと私は考える。現世の価値観とは異なる場、アジールであり、いまの時代ならサードプレイスとして機能する場。仏の教えを感じ、集う人々がご縁を結ぶ場だと思っている。極端にいえば、仏像がなくても寺のはずだ。逆に言えば、仏像と曼荼羅があるだけで寺の機能を果たしているのだとすれば、僧侶はいらないし、建物もいらなくなる。インターネット上に仏像と曼荼羅の画像を置いて、ときどきアクセスしてもらいさえすれば、それでも寺になってしまうのではないか。
仏教を専門的に学んだことのない身なので、専門家からみれば頓珍漢なことをいっているのかもしれない。あくまで、多くのお寺を取材させてもらった経験から感じた私の見方であることをお断りしておく。
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