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ぼくはペッパー君

 ある春の夜のことだった。
私はその日、会社の飲み会があり、ほろ酔い気分で帰り道の線路沿いを歩いていた。
外灯の少ない、暗い道であった。
いつもであれば、表の明るい大通りを歩いて帰るのだが、どうにも今日はそんな気分にはなれなかった。

退屈な飲み会であった。
会社の飲み会なんて、詰まるところ仕事の延長線でしかなく、つまらないのは当たり前なのであるが、その無為な時間に対し、高い会費を払わなくてはならないという点が更に腹立たしい。やるせない気持ちがこみあげてくる。
 「・・・ばかばかしい」
思わずそう独りごちながら帰る私は、ひどくみじめであった。時折傍を過ぎてゆく電車の窓に映る、人影を見ているとなんとなく切ない気持ちになった。

無性に早く家に帰りたくなり、私はしばらく無心で歩き続けた。その間、人の往来は全くなく、ぽつぽつと立つ外灯の、頼りなさげな光の中をただ一人歩いていたが、酔いもだんだんと醒めるにつれ、私は心細さを感じ始めた。
さすがに危ないのではないだろうか。
次の曲がり角で大通りに入ろう。私は急ぎ足で歩みを進めた。
しばらくすると前方に、白い小柄なシルエットが暗闇の中にぼうっと浮かび上がるのを認めた。一瞬ぎょっとしたが、冷静に考えれば人であろう。 
大柄ではなく、白い服装であることからして、女性ではないだろうか。薄暗いため、はっきりと見えたわけではないが、何となくそう思った。
人通りがあるのなら、と安堵し、大通りに入るのは止め、私はそのまま線路沿いを歩き続けることにした。
 
コツコツコツ。
 
コンクリートに、双方の足音が響く。私は俯いて、足早に帰路を急いだ。
 
コツコツコツ。
ゴロゴロゴロ。
 
キャスターのような音が、前方から聞こえてくる。キャリーケースの音だろうか。こんな時間からどこへ行くのだろう。出張帰りか。
 
コツコツコツ。
ゴロゴロゴロ。 

足音が、私のものしか聞こえなかった。
ぞっとした。
思わず足を止めると、前方のキャスターの音もぴたりと止まった。
嫌な汗が背中をじっとりと濡らす。人ではないな。なんとなくそう思った。恐る恐る、顔を上げると、5メートル程先に立っていたのは、やはり人ではなかった。
 

ペッパー君であった。

 

「こんにちは、ぼくペッパーです。」 


ここにあるはずのないものに不意に出くわし、私は正常な判断ができなくなってしまった。私はあの時、大声で叫びながら、元来た道を走って逃げ、大通りに飛び込み道行く人に助けを求めることだってできたはずだった。

酔払いの戯言だと、人に馬鹿にされたとしても、何としてもそうするべきだったのだ。

あろうことか、私はペッパー君の存在を見なかったことにし、ないものとして、扱うことにしたのであった。

私はうつむいて、線路沿いを足早に歩き始めた。
決して見てはいけないと思った。

ペッパー君は動かず、ずっとそこに居続けていた。すれ違う私を、光る瞳でじっと見つめ続けていた。

 
「ぼくとお話ししましょうよ。」
「おーい、聞こえてますか。」
 

私の恐怖は限界に達した。私は無我夢中で走り出した。バッグもヒールも投げ出し、必死で走った。全速力で走っているはずなのに、思うように体が前に進まず、その事が余計に私を焦らせ、また恐怖へと駆り立てた。

どれほど経ったのだろうか。少し遠くの前方に、隣駅前のロータリーが見え始めた。私はほっとした途端に力が抜けるのを感じ、その場にへたり込んだ

しん、とした空気の中に、自分の乱れた呼吸音だけが響いていた。じっとその音に耳を澄ませているうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。

助かったのだ。

さっき見たものは、何だったのだろうか。私の知っている、ペッパー君ではなかった。

バッグやヒールを投げ捨て、髪を振り乱した私はとんでもない姿をしていたが、到底拾いに戻る気にはなれなかった。とにかく、家に帰ろう。そう思い、立ち上がったその時。
私は背後に、感じた。

 「僕を無視しないでください。」

私は大変な寒気に襲われ、意識が遠のいていった。
 
「これ、落としましたよ」

私のバッグとヒールであった。
普通にいいやつであった。


Fin

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