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わたしたちの夢見るからだ【第十五話】:皮膚をさわる/前編
身支度というものがある。
2〜3ヶ月ほど前までだろうか、そう遠くない過去の話だが、わたしは外出のための身支度に3時間ほどかけていた。
身支度に3時間ほどかけている、という言い回しは能動的に響きすぎるかもしれない。もっと短時間に済ませられるのならそうしたかった。限りある生の中で、1日24時間のうち3時間、約8分の1、外出準備にかけるのには長すぎる時間だと感じ、日々の気がかりではあった。
具体的に、身支度のどの動作に時間を費やさざるを得なかったのか。その3時間のうち2時間半ほどは、顔にお化粧を施す時間に充てられていた。
そもそもメイク、化粧というものは、最低限の服を身につけるだとか靴を履くというような事と比べれば、社会からの要請度はそこまで高くないのではないか。外出の際にメイクをしない人も極端な少数派ではない中で、メイクという行為は一般的に、身支度を構成するさまざまな行為の中でも自由意志によって行われる要素が強めなようなイメージがある。
だがもちろん、身支度においてメイクアップがすべからく自由意志によって行われると言い切れるというわけではないだろう。少なくとも、わたし自身の2時間半が自由意志によって選択された有意義な時間であるとは、その時のわたしには思えなかった。
日常的にメイクをしない方には、メイクに2時間半というのが具体的にどれほど長い時間なのか、判然としないかもしれない。参考までに知人何名かに聞いたところでは、短くて15分、長くて1時間弱程度が平均値と感じた。日常的なメイクに1時間以上かかると言えば、かなり長いと感じるメイクアップ当事者が多数派と思われる。
では2時間半もかけて何をしていたのか、ということで、ざっと工程を記したい。
・洗顔、スキンケア
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・カラーコンタクト装着
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・ベースメイク
(下地1、下地2、ファンデーション、コンシーラー、ハイライトコンシーラー、フェイスパウダー2種)
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・チーク、シェーディング(リキッドチーク、パウダーチーク2種)
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・眉メイク
(アイブロウパウダー、アイブロウペンシル、眉用コンシーラー、リキッドアイブロウペンシル、眉マスカラ)
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・アイシャドウ
(アイカラー6種類、アイライン3種類)
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・まつ毛メイク
(ビューラー、ホットビューラー、マスカラ下地、マスカラ)
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・さらにポイントでシェーディング
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・リップメイク
(リップライナー2種、リップティント、口紅、リップグロス)
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・さらにポイントでハイライト
各工程ごとに細かく書き出すときりがないが、ざっくりと記せば以上だ。日常的なそれとしては過剰と言えると思う。
もちろん容姿の華美さが成果や利益に直結する状況下ではその限りではないかもしれないが、わたし自身の状況は別段そういう感じではなかった。また上記のメイク工程をこなすにはそれなりの労力が伴うため、外出前にも関わらず、毎度のメイクを終えるたび、わたしは疲れていた。
さらに、メイクの仕上がりについての参考として近しい知人の忌憚のないコメントを引用すれば、「かけている時間のわりに、あんまり顔が変わっていない」。
ではなんのために、ということになるが、上記のメイクをしなくなった今となっては、ある程度強迫的な心理によるところが大きかったと思っている。
日常的に外出時にメイクをするようになったのは、10代後半からだったろうか。当初からメイクに2時間半かけていたかというとそうではない。そもそも化粧品等に強い興味もなく、ある程度の身だしなみ、顔を洗うとか髪を梳かすとか、その延長線上で手短に、20分ほどかけてメイクをする程度だった。
それがどうして2時間半になったのか、きっかけとして思い当たるのは、数年前、スキンケアに時間をかけてみようと思いついたことだ。
健康に良い気分転換くらいの気持ちで始めたのだが、自分なりに時間をかけて丁寧なスキンケアを続けるのは、近いもので言うと筋トレをしている時のような感じがあった。体質に合わせてメニューを考える。やればやるだけ、やったなりの結果が少し遅れてついてくる。あとはその結果が、直接的に身体の形を変えること、それが他者からの評価に繋がるところも筋トレと似ているかもしれない。
自分自身の見慣れた顔についてどのような種類の期待も薄かったところへ、他者からの評価が良くなる方向にのびしろがあるかもしれないという驚きが入り込んできたのは、新鮮な体験だった。急にたくさんの人にちやほやされるようになったとか、周囲の人の見る目が変わったとか、そういうわけではない。数人に、前より良くなったね、と褒められたくらいだったと思う。だがそれをきっかけに、顔や体の質というものは自分が思うよりも他者からよく見られているようだと感じはじめたし、手をかけた分だけ良い方向で評価されるのは分かりやすく満足感の得られる出来事だった。
そういった体験により、自分自身の外見をより良い方向に他者に評価されたいという欲求が刺激されたのだろう。
スキンケアの情報収集は主にインターネットを用いて行なっていたが、例えばYouTubeでスキンケアについての動画を見ていると、関連のあるコンテンツとしてメイクについての動画もサジェストされるようになってくる。ではメイクにももう少しこだわってみようかな、と考えはじめる。
スキンケアは結果の反映にやや時差があるが、メイクアップの結果というのは手を施せば直接反映されるし、その結果が分かりやすい分他者からの評価もより分かりやすく返ってきた。
メイクを丁寧にするようになってしばらくすると、初対面のひとに与える印象が、どうも以前より良いものになったような気がした。相手から話しかけてもらえることが増えたようだし、こちらから話しかけた場合も、好意のある反応が返ってくる割合がすこし高まったように感じたのだ。
わたしは人見知りがかなり強いたちで、会話にも自信がない。初対面の人が多数いる場所で何か話すとなった時など、緊張のあまり自分でもわかるくらい挙動がおかしくなっていたりする。付き合いの薄い人とのコミュニケーションには、全く自信がないばかりか恐怖心すらあった。自分自身それが当たり前になっていたが、初対面、または初対面に近い相手に与える印象を言動以外の部分で改善できるかもしれないとなると、その可能性にかなりの心強さを感じた。
わたし自身がもともと手先が器用で細かい作業が苦にならないといったこともメイクの上達とその効果に関係があるだろうし、スタートがほとんどメイクをしていないところからだったので他者のリアクションの変化がわかりやすかったというのは要素として大きいだろう。
メイクが万人にとって手軽なコミュニケーション改善の手段であるとまでは思わないし、自分自身、劇的にコミュニケーションへの自信が増大し強固なものになった、という程ではない。自分のやっていることとか考えていることの内容など、自分自身の外見よりも内面に興味を持ってもらえる方がより嬉しい、という人付き合いについての個人的な感じ方には本質的に変わりはなかった。
だがそれでも、外見の与える印象を変化させることによって自分自身に興味を持ってもらうための間口が広がるというのは、コミュニケーションを言動によってより円滑なものにすることの難しさに比べれば、かなり手軽な感じがした。
例えるなら人通りのないところに構えていた露店を、人が頻繁に行き交う大通りに構えてみたら、商品の内容も接客方法も変えていないのに売上が増えた、という感じだろうか。そうなれば接客の機会が増え、効果的な接客を効率よく学べることにもなり、結果的には接客の上達にもつながるかもしれない。
そのようにして、すっかり苦手と思いきっていたコミュニケーションについて、メイクという自分自身でも意外な方向から、後天的な自信が補われていったのだ。
だが程なく、メイクをせずに外出することに抵抗を感じるようになった。いわゆるすっぴんで外へ出れない、というのはこういう仕組みだったのか、と思った。
メイクをした状態としていない状態で他者の対応に差があると感じる出来事があると、メイクをしていないことが欠落であるような気がしてくる。もちろん他者の対応への感じ方というのはあくまで主観的なものだし、その原因がメイクをしていなかったからとは限らないのも分かるのだが、そのことによってメイクをせずに外に出ることへの抵抗感が増しはする。
逆もまた然りで、メイクを変えるとか、より丁寧に行った時のコミュニケーションでの主観的な成功体験があると、メイクのせいとは限らないと思いつつも、同じようにメイクをすることでまた同様の結果があればという祈りのような気持ちが生まれてくる。
美しくあれるのならより美しい方がいい。分からなくはない、けれど自分自身にも他者にも当てはめることはないだろう、そう思っていたその考え方にいつの間にかはまり込んでいたようだった。「自分の見た目をできるだけ美しくしている」と信じられることがコミュニケーションに与える自信は、思ったより大きな、無視できないものになっていた。
そうしてわたしのメイクはより丁寧に、細かく、外出の際に必須の儀式であるかのような重みを伴い、じわじわと所要時間や細かな工程を増していった。
執筆者:無(@everythingroii)
後編はこちらから。↓