ひいらぎの窓【第八回】:ああまた生殖か 性のあるからだを捨てておれがおまえのコンビニになる/展翅零
こんばんは、こんにちは。湯島はじめです。
すこしさみしい短歌鑑賞「ひいらぎの窓」本日は第8回目です。縁起の良い数字です。
桜がじゃかじゃか散ってしまいましたね。
ああ春が過ぎていって、夏が来るなあと思って半袖にすると次の日途端に裏切ってきたりしますからね......。体調も気持ちも浮き沈みしがちなこの時期、ゆるりと気をつけてまいりましょう。
今週の一首はこちらです。
◇
どこまでも純粋な希求である。
じっさいには、人が人の「コンビニになる」ことはきっとできない。
だからこそ、この願いは深い夜の底にあるコンビニエンスストアの照明のようにさみしく優しい光を放っている。
「性のあるからだを捨てて」
むかし Google で『恋 定義』と検索したことがある。
すると Oxford Languages の辞書の定義が出てきて、そこには「異性に愛情を寄せること、その心。恋愛」とあってちょっと渋い顔をしてしまった。
この歌の冒頭で「ああまた生殖か」といわれている「生殖」は、字義どおり生き物が子や新しい個体を生み出すこと自体なのか、それにともなう行為や身体的な現象、あるいはさきほどの Oxford Languages の定義に限定されるようないわゆる「恋愛」のことを指しているのか。ニュアンスとしては後者に近いのではないかと思った。
物理的に、社会的に、おそらくわたしたちは一度も「生殖」を意識しないというわけにはいかない。
個人差はあれど、それはたしかに生身で生きる上での苦しみのひとつだろう。
「コンビニになる」ということ。
言うまでもなくコンビニ(Convenience Store)は入るのに制限がない、(だいたいは)24 時間営業の、今ちょうどほしいと思うような身の回りのものならすぐに買うことが出来る便利な店である。
コンビニは奪うもの以外のだれも拒まない。いつも明るく、店内はだいたい清潔である。
「おれ」が「おまえ」のコンビニになってしまったら、ふたりはそのとき対等だろうか?
それは献身的な愛情というより、少しの破滅願望を感じる。
「性のあるからだ」に疲れてしまい、概念的な存在になりたいという希求。一度生身のからだを壊して、生まれ変わるのだとしたら。おれはおまえのコンビニ(的な存在)になりたいのだという。
たしかに愛の歌だ。そして逃れられない生身の苦しみをひしひしと感じる、強い力を持った歌だ。
◇
本日の一首の作者は、展翅零(てんしれい)さんです。
展翅零さんは、新聞歌壇や Twitter 上で短歌を発表されている歌人で、まもなく第一歌集『incomplete album』が点滅社より発売予定です。
展翅零さんの歌は生きるうえでのお守りになるような強くやさしい力を持っているように感じます。
歌集、わたしもとても楽しみです。
Twitter:@Attacusatla
自らの傷に淡雪降らすような顔だ貴方が「親」と言うとき/展翅零
だいすきはかなしいおかねはむずかしいでも銭湯では髪をくくって/同
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?