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わたしたちの夢見るからだ【第十六話】:皮膚をさわる/後編

前編はこちらから。↓



 呪いのように育ったそれについてもやもやを抱えていたある日、電車に乗っていて、ふと思った。いろんな見た目の人がいる。

 当たり前なのだが、その時はやけに身に沁みてそう感じた。自分は自分の身の丈に合った装いの範疇から無理な背伸びをして逸脱しようとしているのかもしれない、と思った。

 地元の在来線に揺られ西日に照らされている人々の姿は、どのようであれ、目を見張るほど美しい造形だというわけでなくとも、それぞれそのままのかたちで風景のように、なんというか、良い感じだった。いろんな顔や形の人がいるのが、当たり前だ。

 身を装うことにしがみついて離れられなくなっていた自分を、客観視するきっかけが訪れたのがその時だったように思う。


 清潔感とか身綺麗にしている感じが他者に好ましい印象を与えるのはそうであっても、3時間かけたメイクでないとコミュニケーションが損なわれるのいうのは思い込みなのではないか。そうしないと怖くて外に出られない、というのは自分自身のかけた呪いの範疇の話でしかないのではないか。

 たぶん、メイクによって得たコミュニケーションへの自信によって、振る舞いも言動も少し明るくなったりしていて、だからメイクを全くしなかった頃より人付き合いがしやすくなった、自分に起きていたのはそれくらいのことなのではないか。

 そう思うようにしたら、過剰な装いへの意気込みに疲れた自分が自覚されていった。

 そして、美容というものの商業的な果てのなさに振り落とされた実感も、安心感と少しのむなしさを伴って湧いてきた。


 より美しくあれ、その方が良い、というメッセージは、美容に関する商品の広告に、疑うことのない大前提として掲げられている。少し興味を持って手を伸ばせば、どこにも欠点のない美しい身体のモデルとともに、それを手に入れる道筋はいくらでもあり、相応の手間やお金、時間なりと引き換えにすれば容易に手に入る旨が示される。一旦そのことを知ってしまえば、そこにいる自分は、より美しい形を手に入れることを選択しなかった自分である。否応なしにそうなってしまう。

 だがいまこの体、わたしたちの身体は、モデルやアバターとしての機能を果たすためだけに存在するのではない。ただ対人コミュニケーションを円滑にするためだけに表象しているのではもちろんないし、精神が乗って自由に操りうる単なる乗り物でもない。


 身体、意識、魂など、自己を構成するものが様々な切り分けをなされ、それぞれに呼ばれる側面がある。それらは、完全にその機能の領域を分つことなく、緩やかにつながりつつ時には手が届かなく思える遠さ、時には全く同じひとつのもののようにしてある。

 他者や自己のまなざし、どこからどこまでが自分かというような線引きの外側で、わたしたちは否応なしに産み出され、そして死ぬまで生きてゆく。

 そういったことの単純でない分かりきれなさに、あるいはわたし自身耐えられず、分かりやすく他者から好まれそうなきれいな自分、コミュニケーション専用のアバターのような意味性の限られた肉体になりきろうと試みたのかもしれない。


 自分自身にうまくメイクを施す、ということを意識した時、興味深いことがある。最大公約数的な美のモデルと、自分にしかない固有の特徴、その両方を同時に把握し表現することが必要とされるのだ。

 最大公約数的な美のモデルというのは、例えば眉毛の形を左右でできるだけ揃える、口角は下げるより少し上がっていた方が表情が柔らかく見える、など万人が共有できる見え方の記号のようなもので、歪みを少なく見せるとか若く健康的に見せる、あるいは見た目の情報のノイズを消すような処置をするようなことになり、端的に言えば野菜を新鮮に見せる理屈とあまり変わらない。となると上記の要素は、ただそれのみが外見の美しさであるとして無批判的に受け入れることの是非はさておき、人間の、生物としての判断力に訴えかける部分なのだろう。

 もうひとつの要素の方がやや文脈の複雑さがありそうで、それは上記の美しいとされる要素から外れた個人を特徴づける要素や、多数派的でない部分を強調する、といったような作業になる。歪みを強調し、それを逆に個性的な魅力とする、とでも表現したらよいだろうか。

 相反するふたつのどちらか片方だけをとるのではなく、あくまで土台がそれぞれ造形の異なった個人であることを前提に、それぞれの固有の要素を均一化しすぎずも、美しさのノイズになる部分だけはある適度目立たなくさせる、というのは、メイクアップのセオリーとしてよく言われることだ。

 だが個々人にそれぞれ固有の自意識と価値観が備わっている以上、自らの容姿を省みて、この要素は伸ばすべき魅力である、この要素は粗として目立たなくした方が良い部分である、いうような判断を下すのは、実際とても難しいことのように思える。


 そのようにして外に向けて美というものを体現しようとした時に、自己像の内側を手探りするような分析の過程が必要になるということに、わたしはまるで人の胎内から人間が産み出されるときのような生々しい構造を感じる。

 他者をまなざそうとした時、同時に深く自分の内側をまなざしてゆくことにもなる、その構造に、わたしたちの皮膚という器官が自分とその外部を分つものでありながら自分と外の世界を繋ぐ役割をも果たすことを、強く思い知らされるようだ。

 いち存在というものが、ある揺らぐ動態であること。わたしが今世界の一部でありながらもひとつのわたしとしてここにあること、他者が、あなたがあなたとしてあること。そのことの根本的な儚さと一時性を、皮膚という存在が体現しているように思われる。

 わたしたちはなんと奇跡的にその形を保っているのだろう。

 わたしやあなたの形ある部分は、常にさまざまに機能することによって、存在することの稀有さを示し続けてゆく。変わりゆくその形から、目を離さず、考え続けたい。


執筆者:無(@everythingroii



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