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ひいらぎの窓【第二回】:みてみてね きょうみてみてね あしたにもあしたがあるとおもわないでね/枡野浩一

こんにちは、こんばんは。

お読みいただきありがとうございます。

まだ連載の2回目なので、ふたたびご挨拶をさせてください。

この「ひいらぎの窓」はわたし湯島はじめが、どこかにすこしさみしさのある短歌を毎週一首えらび、一首評や歌によって思い出したことなどを話してゆきます。

みなさんも、短歌を読んで感じたことなどをコメント等していただけたらうれしいです。



本日の一首はこちらです。

みてみてね きょうみてみてね あしたにもあしたがあるとおもわないでね

枡野浩一「歌集『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全歌集』より」


なにを見てほしいんだろう。まるで明日がないみたいに、どうしてそんなに急くのだろう。
それがなにについてかは直接書かれていませんが、31文字ちょうどの「お願い」がとても印象的な歌です。

この歌を読んだとき、わたしはあまり迷うことなくSNSの投稿のことを想像しました。
SNSには現実で出会うよりも遥かにたくさんの人の言葉や作品が飛び交っている。
そのどれかにリーチすることは、むしろ現実よりもたやすいけれど、同時に本当に切迫した想いで言葉を発したたったひとりを見過ごしてしまうこともままあることだと思う。
(というか、無限にすれ違う人のすべてに生があるのでそのすべてを受け取ることは不可能なのだ。)
ぎりぎりのところで絞り出すようにSNSにつぶやく人、ある日ふといなくなってもう二度と会えなかった人。
ふとその言葉を見落とした相手と、あしたには会えなくなることもインターネットにはよくある。


「みてみてね きょうみてみてね」
ことばを繰り返しているけれど押しつけがましいところはなく、本当に小さくつぶやいている願いのようだ。
詩歌のひらがな表記はしばしば、幼さややわらかさを想起させるけど、この歌はすべてがひらがなで書かれていることでか細い声の様子や、漢字に変換する気持ちのよゆうもないというような切実さを感じさせる。

「あしたにもあしたがあるとおもわないでね」
もしも運よく明日があったとしても、その次の明日があるかはわからない(約束できない)。
話者はいじわるで言っているわけではなくて、本当にわからないのだと思う。

きょうを生き延びてあしたがくることが既に奇跡のようで、その次のあしたなんて。毎日毎日をそういう気持ちで過ごしている人が、この世界のどこかに、身近なところに、あるいは本当はみんなそういう気持ちなのかもしれない。

やっぱりもういない人・いなくなってしまいそうな人を想像するようなフレーズだけど、これはべつに、有り体に言えば精神がぎりぎりのところにある人の話ではなくて、誰にでも当てはまることなんだよなと思う。

だからこうしたほうがいいとか、こうすべきだということは歌には書かれていない。枡野浩一さんの短歌の言葉づかいはとてもストレートで、一読して誰でも意味をとらえることができる作品が多いように思う。何かにたとえたり美化をすることなく、ただ「そうなのだ」ということがある。基本的に57577のリズムを崩さず、知らない人も多いであろう専門用語や人名は登場しない。

圧倒的に親近感があるのだ。

だから、読者は歌を自分の体験に引き寄せて強く共感したり、あるいは時にこの歌は「わからない・好きじゃない」とはっきりと思うことができるのだと思う。


同じ現代口語で書かれた短歌だけど、先週紹介した東直子さんの一首とはその感触がまったく異なる。
同じ日本語で短歌なのだけど、みんな違う楽器でやっているような、この世の楽器の全部があるような、それを現代短歌と呼ぶのはなんだかすごくて、たまにこわくてとてもおもしろいです。



本日紹介した短歌の作者は、枡野浩一(ますのこういち)さんです。
1968年生まれ、東京都出身の歌人で、歌集のほかに小説やエッセイも多数書かれています。
ちなみに第一歌集『てのりくじら』(1997年,実業之日本社)はオカザキマリさん画の短歌絵本です。(書籍紹介には“ビジュアル短歌集“と書かれています)


余談ですが、Amazonの枡野さんの著者紹介のページでは経歴から靴のサイズまで知ることができ、ちょっと愉快でした。


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