ティファニーブルーはやめておきなさい

「ママ、ママ。この紙袋、いっぱいあるの、なんで?」

妃美子は娘の紗南の声に手を止めた。振り返ると、瞳を輝かせて紙袋の山を漁っている。妃美子が溜めに溜めたハイブランドのショップバッグだ。何に使うでもないけれど、1つ何かを購入する度に大切にしまっていたらクローゼットの隅に収まらなくなり、いくつか処分しようと出しておいた山だ。紗南はその中からティファニーのショップバッグを束で出していた。

「これ、なんて書いてあるの?」

「これはね、ティファニーって読むの。」

紗南はまだ5歳になったばかりで、ブランド名なんて言ってもわかる訳がない。

「ティファニー?何屋さん?ママ、好きなの?」

よくわかりもしないで、緑がかったブルーの紙袋を掲げて首を傾げる愛娘を見て、妃美子はくすりと笑った。そして左手を紗南の前に出して見せる。薬指には、結婚指輪と婚約指輪を重ねて着用している。

「アクセサリーのお店。パパがママにくれた指輪はね、ティファニーなんだよ」

パッと明るい笑顔を見せて、紗南はその小さな手で母親の細い指を握った。

「これ、綺麗で、紗南も大好き!」

幼きにしてティファニーの指輪を大好きとは、恐るべし。妃美子はまたもくすっと笑った。

紗南は自分の握る指と紙袋の山を何度か交互に見つめて、今度は眉間に皺を寄せて妃美子に尋ねる。

「パパは、ママにいーっぱいプレゼントしたの?」

これには妃美子も爆笑してしまった。夫の純樹はごくごく普通のサラリーマンで、彼のお給料でこんなに頻繁にティファニーを買っていては生活に影響を及ぼすことだろう。

ティファニーの指輪でプロポーズされて涙を流して喜んだ妃美子は結婚生活が落ち着いた頃に、日常で使えそうなファインジュエリーを調べてみた。ピアスやネックレス等もとにかく豊富で、しかも可愛い。妃美子はすっかりティファニーの虜になってしまった。

結婚してから紗南が生まれるまでの6年間は、とにかく必死に働いた。それまでは服と化粧品に費やしていたお金をうまくやりくりし、自分用の貯金もコツコツと溜めていっては節目節目で自分へのご褒美としてティファニーのアクセサリーを購入していた。

専用のケースに大事にしまわれて、街中でも一目でわかるあのカラーの袋に入れて商品を渡される瞬間が好きだった。ティファニーのアクセサリーを付けて街中を歩くよりも、紙袋を提げて歩く方が誇らしげな気さえしていた。遠目で見てしまえば豆粒のようなピアスはどこのブランドかなんて曖昧だけれど、紙袋は嘘をつかない。それを提げて歩くことが、ひとつのステータスのような感覚だった。妃美子は、高校生の頃にこれ見よがしにヴィトンやヴィヴィアンの長財布を使用していた友人を思い出した。私の誇りであるショップバッグも、あれと大差ないのかもしれないと思った。

もちろん優先順位としては家族や生活の方が遥か上にある。特別浪費している訳ではなく、きちんと家族の貯金もしながらのご褒美なので純樹も嫌な顔はしない。

「お、今回はピアスだね。やっぱり似合うよ、ティファニー」

夫として、自分が贈った指輪のブランドを妻が気に入っているのは嬉しいようだ。純樹だって、特別アクセサリーのブランドを知っている訳ではない。ただ、妻の選ぶアクセサリーは自分の選んだ指輪と同じブランドである。それが彼の誇りらしく、銀座でショッピングをするときなんかは

「ティファニー見てく?」

と聞いてくる。理解のある夫で、それだって妃美子にとって自慢だった。

「ママ、紗南も綺麗なの、欲しい」

妃美子の指をずっと握ったままの紗南が見上げて言う。これはおねだりの目だ。最近スーパーでお菓子を買って欲しい時なんかに上目遣いをするようになった。どこで覚えたんだと思っていたら純樹に

「ママそっくりだなぁ」

と言われてしまった。しかしいくら可愛くおねだりされても、5歳の娘にティファニーなんてあげる訳がない。妃美子は愛娘の小さな手を握り返した。

「紗南はまだ小さいから、もっと可愛い色の方が似合うよ。今度お菓子もついてるやつを買ってあげるね。」

紗南は一瞬だけ目をキラキラさせて、すぐに真顔に戻り言った

「紗南は、いくつになったらティファニー似合う?」

妃美子は、「20年早いわ。」という言葉をぐっと飲み込んだ。そして20年後を想像する。社会人になった紗南と、50を過ぎた自身の姿を。もし紗南が早々に結婚していたら、孫がいるかもしれない。そう考えるとぞっとした。首を傾げる紗南はついこの間生まれたような感覚さえある。しかし5歳だ。妃美子は20年後の未来が全然遠くないことのように感じた。きっと20年後の自分は、紗南がティファニーの紙袋を掲げていた光景をついこの間の出来事のように思い出すに違いない。妃美子は頭を左右に振って、屈託のない紗南の目を見つめた。

「紗南も、大きくなったら、大切な人ができて結婚するでしょう?」

「ママと、パパみたいに?」

紗南の言葉に、妃美子は少し安心する。少なくとも自分たちは紗南にとって大切に思いあって結婚したと思われているようだ。実際そうなのだけど、本当にほんの少し、安心してしまう。

「そう。その時ね、ママはもうティファニーは似合わないかもしれない。それか、もーっとママに似合う綺麗なアクセサリーを見つけてるかもしれない。だからね、紗南が結婚する時に、ママのティファニーを紗南にあげるね」

途中まできょとんとしていた紗南の目は、最後の一言で今日一番の輝きを見せた。私はこの子が結婚するまでに、あとどれくらいティファニーを増やしてあげられるだろうかと妃美子は考えた。


結局ショップバッグは処分できないまま夜になり、夕食の支度をしていると純樹が帰ってきた。紗南は玄関に突っ走って行って純樹に抱き着く。最近のマイブームのようだ。純樹は「歩きにくいだろ」と言いながらも嬉しそうに紗南を抱きかかえて歩く。

「妃美子、今日同期の奴と話してたんだけど、そろそろ紗南にも自転車を買わないか?」

「確かに、今から練習したら小学校に上がる時には補助輪無しで乗れるよね」

だよな、と笑顔で言う純樹は、鞄からサイクルショップのカダログを取り出した。仕事が早い。子供用の自転車のページを開いて紗南に見せる。

「どんな自転車がいいか、見てごらん」

それから純樹は寝室に着替えを済ませに行き、妃美子は夕食作りを続けた。餃子が焼ける良い音がリビングまで響く。紗南はダイニングテーブルでカタログを広げて、アニメのテーマソングを鼻歌で、時々音を外しながらうたっていた。

白い大皿にフライパンをひっくり返し、見事なきつね色の焼き目を披露することに成功した餃子をテーブルに置くと、同時に寝室から着替えた純樹が出てきた。「さっきの音とこの匂いで余計に腹が減る」と嬉しそうに言う。妃美子は下戸な夫の為に大盛の白米と、自分用のビール、そして子供サイズの白米と副菜のプレート等を次々並べる。

「紗南、一旦ご飯食べようか。また後で一緒に見よう?」

「パパ、紗南これがいい!ママのティファニーの色!」

妃美子の言葉と同時に紗南が大声で叫ぶ。デザートに切ったりんごの皿をキッチンから運ぶ妃美子にはそのページは見えなかったが、笑ってしまう。純樹はカタログを覗き、目を見開いて

「これはちょっと・・・」

と言った。

「紗南、ティファニーの色の自転車は、ちょっと早いからやめておきなさい」

クックッと笑う妃美子。開かれたページには、イタリアの自転車メーカーであるビアンキの、それはそれは立派なロードバイクが載っていた。

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