砕いてしまえ、サクサクと。
誰が悪いを決めつけるのは、第三者の仕事ではないだろうか。私は彼を見ていて、そう思った。
中峰君は今勤めている広告会社で新卒入社の頃からの同期で、私たちと同期の社員は誰も残っていない。うちの会社が特別ブラックというわけではなく、私と中峰君が10年を超える古株になっているだけだ。でも私は、今彼の置かれている環境がブラックと化しているように見えてならない。
「水野さん、聞きました?中峰さんまたミスして、さっき食堂でランチしながらお説教されてたんですよ」
昼休みも残り10分となり私が自分のデスクで午後の業務の準備をしていると、同じ総務部の保田さんが大して小さくもない声量で話しかけてきた。その笑みは何も知らない人が見るとかわいらしいが、私は少しぞっとした。中峰君を嘲笑する表情だと知っているからだ。
保田さんはこの会社で私含め6人しかいない女性社員のうちの1人で、間違いなく1番美人と言える。私の3個下だが童顔なのもあり、ぱっと見ただけだと10歳離れていると言われても信じてしまいそうだ。今年33になる私は入社した時こそ若いと言われたけれど、特別美人でもないので本当にそれだけだった。中峰君は学生時代にサッカーをやっていたらしく、背が高くて清潔感もあり女性社員の間では一時期人気があった。保田さんも入社したての頃は私に
「中峰さんと同期なんですよね。仲良いんですか?今中峰さん彼女いるかとか聞いてませんか?」
などと積極的に質問してきた。確か当時中峰君には彼女がいたけれど、ここ4年ほどはいないはずだ。たまに飲みに行った時にそういう情報交換はしたけれど、彼のプライバシーをペラペラと話すのも気が引けるので、何を聞かれても一切知らないふりをしていた。
そして保田さんは案の定、ミスばかりで怒られっぱなしの中峰君への興味が薄れていった。今となっては陰で笑う存在にしてしまっているから怖いものだ。
「ランチ中にお説教は最悪だね。中峰君大丈夫かな」
「私席近かったんですけど、結構へこんでましたよ」
中峰君は経理部で実は2番手だ。というのも、新しいソフトを導入する際に古株のメンバーがタイミングよく寿退社だの定年退職だのでいなくなってしまって、経理部長の松山さんと中峰君だけになってしまったのだ。そして一気に募集をかけたところ、新しいソフトしか触れない若い人達が集まってしまった。
松山さんは飲み会等の席では気さくなおじさんといった感じだけれど、仕事となると少し厄介だ。例えば総務のメンバーは割と自由で昼休み以外にも午前と午後に1回ずつ5分休憩を取り入れているけれど、経理部にはそれが無い。松山さんは仕事中に少しスマホを見たり煙草を吸ったりといった息抜きを一切許さない人だ。また、新しいものが苦手で未だに経理の新しいソフトを使えないと聞いた。古い物しか使えない松山部長と、新しい物しか使えない若手社員。これだけでも、両方使いこなせる中峰君に余計な業務が増えたことがわかる。全く話の通じない上司と若手の橋渡しは、すべて彼の仕事だ。もちろん将来的にはすべて新しくした方がいいので、最初に中峰君は丁寧に使い方を教えたらしい。というか、私は用事があってたまたま経理部にいたのでその現場も見ていた。
「中峰、俺はこういうの本っっっ当に苦手でな。そんな風に教わってもできねぇから、まぁ、頼むよ」
松山さんが少し枯れた特徴的な声でそう言ったのが聞こえたのも覚えている。最後の「まぁ、頼むよ」にどれだけ膨大な量の業務が隠されているのかは、青ざめる中峰君を見ればわかった。思えば、彼のミスが増えたのはあの日からだったのかもしれない。
「中峰さんって、顔は結構かっこいいのに残念ですよね。水野さん同期ですけど、まだ仲良いんですか?」
「まだって何?」
保田さんの言葉に私は笑ってしまった。面白いわけではない。目の前にいるかわいいはずの後輩をどういう顔で見ていいかわからなくて、取り繕うような笑みが出た。
「中峰さんと仲良いのって、水野さんくらいですよ。なんか、他の人も前はよく喋ってたけど、松山さんから言われたみたいです。あんまり中峰さんに雑談振って集中力乱すのやめろって」
「え、それ本当?」
私は一度冷静になろうと息を少し吐いた。
「本当ですよ。それでみんな中峰さんに話しかけるのやめてます。中峰さんの集中力持たないの自分のせいにされても嫌ですから」
「中峰君待って!」
総務部の入り口から、廊下を歩く中峰君が見えて私は保田さんの話を遮って彼を呼び止めた。時計を見ると休憩時間終了5分前。長い足止めはできない。こちらを見ながらも早く戻らないとという気持ちが丸見えの彼に
「7時!だるま!」
とだけ声を掛けた。親指を立てて少しだけ笑顔を見せた中峰君が見えなくなる。
「水野さん、今の話聞かれちゃいましたよね」
青ざめた保田さんに「聞こえてないよきっと」とは言わない。聞こえていないとは思うけど確信はないし、少しくらい罪悪感を持てと思ってしまった。
「聞かれたくない話は会社でしないの。ほら仕事するよ」
午後の業務の間、私は珍しく5分休憩を取らなかった。休憩したら余計な事を考えてしまいそうだった。保田さんが自分の休憩の時に私の分もコーヒーを買って来てくれた。私はありがとうとだけ声を掛けてそのまま18時まで集中していた。片付けをしていると保田さんが寄ってきた。
「水野さん、この後中峰さんと飲みに行くんですか?」
「うん、久々にね。保田さんも来る?」
彼女は遠慮しておきますとかわいく答えてそそくさと帰って行った。私は経理部の明かりがついていることを確認して、会社を出た。
30分程して会社に戻ると、経理部の明かりは消えていた。早かったなと思い喫煙ルームに行くと、中峰君が紙煙草を咥えていた。経理部は昼休みを逃すと就業まで煙草を吸えない。今日昼休みにお説教を受けた彼はおそらく始業前に吸って以来2本目だろう。
「お疲れ。早かったね」
「昼休みで消耗したから今日は無理しないことにした」
「ほんと、お疲れ」
私は手に持っていたコンビニ袋を喫煙ルームのカウンターに置いた。缶のビールとハイボールが大量に入っている。この会社にも少ないけれど防犯カメラは設置されている。お金を扱う経理部と、個人情報を扱う人事部総務部には他より多い。しかし社内で2か所だけ、カメラが設置されていない場所がある。喫煙ルームと給湯室だ。給湯室は廊下のカメラから少し中が写るという理由で中には設置しなかったようだ。喫煙ルームには以前設置されていたけれど、未だに紙煙草ユーザーの多い会社だ。人がいる=煙がある、つまり、白いもやがかかってほとんど写らなかったのが理由で外された。それを教えてくれたのは総務部の橘先輩だ。私が新卒の頃いろいろと指導してくれた先輩で、3年前に退職した。その頃中峰君は一度限界を迎えそうなくらい日々疲弊していて、私は思い切って喫煙ルーム飲み会を開いた。
「会社の愚痴をさ、会社で思いっきり言える時間と空間があるの、すごく楽だわ」
初めてここで飲んだ日にそう言って中峰君が笑ったので、2か月に1度くらいのペースで全社員の退社を見届けた後にここでこっそり飲み会している。喫煙スペースの隅に、いつ誰が貼ったかわからないステッカーの跡が残っている。掃除のおばさん曰く、目立たない場所だし粘着が強すぎて取れなくて諦めているんだとか。それがだるまのように見えたから、私たちはここをそういう隠語で呼んで飲んでいた。誘い文句だけ聞けば「だるま」という居酒屋にでも行くのかと思われるだろう。ちなみに、飲み会の回数を重ねる度にお酒の量は増えている。
「まぁとりあえず、乾杯しますか」
「だな」
静かに缶を合わせて、350mlのビールを半分近くまで一気に飲む。私はビールはそこまで得意じゃないので、最初の1本だけだ。喉を潤して、乾きものばかりのおつまみを出す。
「中峰君さ、仕事しんどくない?」
私は彼の好きな歌舞伎揚げを渡して小さくこぼした。流石に本題に入るのは早すぎたかもしれない。けれど思わず声に出てしまった。中峰君は「うーん」と考えながら歌舞伎揚げを開けて1枚を口に放りこんだ。ビールと歌舞伎揚げなんてカロリーと糖質を気にする必要がない体型だから摂取できるマリアージュではないだろうか。ボリボリと咀嚼音が響く。次第に小さくなり、最後はビールで流しこんだ。その時間が、妙に長く感じた。
「仕事は、しんどくないかも」
「え?そうなの?」
思ってもみなかった返答に変な声が出てしまった。
「俺さ、計算っていうか、答え1つしかないもの結構好きなんだよね。算数とか数学とか得意だったし。だから経理の仕事自体は全然苦じゃないんだよ」
「あぁ、なんかわかる。私は文系だからどっちかと言えば苦手だけど、そういうの好きって人も多いよね」
「会社の金ってだけで桁違うじゃん。そういう数字がさ、ピタッと1の位まで銀行と帳簿で揃った時とか超気持ちいい」
経理の仕事をここまでキラキラした目で語れる人は少ないのではないだろうか。でも確かに、扱う金額も大きく支払い先や人の数も、個人で管理するお金より何倍もあって難易度が高いのは確かだ。
「でも、今日みたいなのとかは、しんどくないの?」
また歌舞伎揚げを咀嚼しながら、「ん-」と言っている。そしてまた、ビールで流し込んだ。
「今日みたいなのは、さ。仕事じゃないんだよ」
私はハイボールの缶を開けながら固まってしまった。中峰君は目を真っ赤にして、今にもこぼれそうな涙を必死に堪えている。上を向いて抗おうとしていたけれど、とうとう目尻から零れてしまった。私はバッグからハンカチを出して彼に渡した。
「俺の仕事って経理だから、金の管理。なんだけど、松山部長がさ、あんな感じじゃん。職場環境と仕事って別物だなった改めて思って。っつーかごめん、ちょっとマジで、俺すげーダサい」
「大丈夫だよ、いつも十分ダサいから」
「おい」
少し彼が笑ってくれたので、私は安心した。こういう時言葉を選びすぎる癖がある私は、相手が話しやすくなる返しを中峰君で覚えたと言っても過言ではない。
「今日は何があったの」
「お前それ聞く?多分俺がミスしたと思ってるだろ」
話を聞くと、松山さん宛ての電話を中峰君が取って、その時松山さんは離席していたのでその旨を伝えて折り返しの連絡先を確認しようとしたところ「またこちらから掛けます」と言われたらしい。
「ミスしてないじゃん」
「そう、で、俺はそのこと付箋に書いて部長の席に貼って、ちょうど昼だから昼飯食ってた。そしたら途中で食堂に来て、連絡先聞けよバカって怒鳴られた」
「・・・ん?ちょっと待って。聞こうとしたよね。で、大丈夫って言われたんだよね」
「俺仕事できないと思われてるだろうけど、実際そういうのばっかだよ。ちなみに説教終わった後、くったくたに伸びきったラーメン食った。」
哀れすぎてこっちまで泣きそうだ。松山さんは自分が「こうしてほしかった」と思うことをストレートにぶつける人のようだ。書類の修正はシャープペンじゃなくてボールペンで書けだの定時で上がるならその前に手伝うことがないか聞けだの、そういった小言を中峰君にぶつけていて、若手社員には業務連絡くらいしか話をしないのだとか。
「それって、何ハラ?」
私は少しあきれ気味に聞いた。彼は吹き出して笑っているけれど、目からはさっきから少しずつ涙か溢れている。
「ハラスメントなのかなぁ。俺よくわかんないんだよ。あの人若い奴らとは話さないから。新しいデータ扱えないから、なめられないように俺にきつく当たってるだけだと思うんだよね」
私は既に3本目のハイボールを手にしていた。中峰君の愚痴を聞きながらも、しっかり飲む。これはそういう時間だ。でも正直、同期で入社して3年間で彼の涙を見たのは初めてだ。
「でも当たられる側は限界っぽいじゃん」
「いや、今日はちょっとな。次はもうちょい短いスパンで誘って」
中峰君は自分から喫煙スペースで飲もうとは言わない。私が非喫煙者だからだ。喫煙者自ら喫煙所に誘うのは流石に気が引けると前に言っていた。しかし、何を隠そう私は元ヘビースモーカーなので全くきにならない。それでも彼が気を遣って誘わなかったのなら、次は月1くらいで開催してやろうかと思った。
「仕方ないことって思うの?松山さんのこと」
中峰君は歌舞伎揚げを頬張るわけでもビールを飲むわけでもなく、ただその飲み口をじっと見ている。こちらの質問に対して時間を要するところがあるのは、入社した時からだった。当時はよく他の先輩から
「お前は会話のテンポが悪いなぁ」
といじられていた。いじりだと思えたのは、言葉の中に優しさがちゃんと見えたからだ。松山さんにはそれが無い。そんなのが日々積み重ねられて、壊れてしまうのも無理はない。
「中峰君って、松山さんのこと好き?上司として」
「嫌いかな。あぁはなりたくないなって思う。俺にしか強く言えないってのはわからなくもないけどさ」
思ったよりこの質問への回答は早かった。私は4本目のハイボールの缶を開けながらなるべく酔いを見せないように冷静に話すよう心掛ける。
「松山さんが中峰君にだけ強く言うのは、下からなめられないようにっていうのはわかるよ。原因はそこかもしれない。でも中峰君にだけ強く言っていい理由ではなくない?さっき中峰君、職場環境と仕事は別って言ったけど、言われる原因と言っていい理由も別だと思う」
ついつい高圧的になってしまって反省する。一度黙ると中峰君は、数学の問題でも解いているかのような顔をした。多分彼は国語が苦手だ。今聞いた文章を頭の中で反芻して初めて理解が追いつくのだと思った。こういう分析は得意なのに酔うとつい捲し立てるみたいな言い方になってしまう。
「俺今すごく目から鱗なんだけど」
「涙じゃん」
「もう泣いてねぇし」
確かに頬に涙の跡はあるけれど、目からはもう零れていない。
「でも俺が会社辞めたら部長マジで新しいデータ使えないから」
「いいじゃんそれで。ていうか、私は別に辞めたらいいって言ってないよ。例えば人事に相談するとか、そういう手もあるって話をしようとしてたの。でも自分の中で、辞めるイメージできてるじゃん」
別にイライラしているわけではない。私は早くこの男を解放してやりたくて仕方ないのだ。松山さんのせいでここまで心が折れているのに、松山さんのせいで辞められないなんてあってたまるか。中峰君は松山さんの為に仕事してるわけじゃないのに、松山さんのせいでボロボロじゃないか。
「で、これは?書く?」
私はコンビニ袋から、白い便箋を出した。大抵のコンビニにはおいてあるけれどいつ誰が緊急でこれを使うのかわからなかったけれど、なんとなく今日がその時のような気がしたから買ってきた。中峰君が、今日1番の笑顔を見せた。
「中峰さん、さっき、松山さんが探してましたよ」
あの日から1年が過ぎて、保田さんは異動先の経理部での仕事にも少し慣れてきたようだ。松山さんも女性には強く言えないようで、保田さんの明るい性格もあってか少しだけ経理部の空気は良くなったと言える。時間は少しかかったが、経理部のソフトも無事にすべて新しくすることができた。
「げっ、なんだろ」
松山さんは昨日まで休暇を取っていたはずだ。
「なんかめちゃくちゃ可愛いご祝儀袋持ってましたよ」
私は、そういうことなら会ってもいいかと胸をなでおろした。