うすらい
彼女の元彼の痕跡があるのは、ベランダの室外機の上にある灰皿の中だけだった。
捨てよう、とも言わない、思わない。
私が「次の人」であるうちは、もう少しだけこのままでいいと思った。
気づいていないふりをして、私の吸い殻も、上に重ねるように置いた。
彼女は、あまりにもあっさりと元彼の歯ブラシを捨てた。私の旅行用の歯ブラシ入れに入っていた透明な柄のそれが、彼女の歯ブラシの隣に白々しく刺さっていた。
元彼のことは深く知らないけど、1年以上も一緒にいた人の痕跡を、そんなにあっさり消してしまうのは、ヘルシーじゃないと思った。なんだかどうしようもなく不安で、だから、残ったタバコの吸い殻で、私は安心さえしたんだと思う。
気持ちも状況も、変わるときはいつもグラデーションでしょう?私は分かってるよ、分かってるから、嫌じゃないんだよと伝えたいけど、彼女は優しいから、ケロッとした顔で「まじでうっかり忘れてただけ!」と返してきそうで、だから言わなかった。
あぁ嘘、もうひとつだけ痕跡があったんだった。彼女のキーケースに、鍵がもう一本ついていた。送らなきゃと言っていて、元彼のものなんだと察した。元彼の家の合鍵と補足されて、いやわかってるわ、と思った。
送らなきゃいけない書類があるからコンビニで切手買いたいと言ったら、あ、私も送るやつあるって彼女が言った。青い封筒。合鍵、と、彼女は付け足した。合鍵、だけじゃないでしょと私は思った。
大丈夫、わかってるよ。何も嫌じゃないよ。伝えたかったけど、私の心を傷つけないように、不安にさせないように、細心の注意を払っている彼女に敬意を見せたくて、そっか、住所わかるの?となるべく素っ気なく返した。
ポストに入れる時も、あっさりだった。まぁ、しんみりされても嫌だけどさ。
寝る前に、さっきの封筒、一応手紙も入れたんだと教えてくれた。いや、わかってるわと、私は思った。書いた内容もちゃんと教えてくれて、安心した。安心した時に、ちょっと不安だったことに気づいた。あぁ、わかってなかったわ、と思った。
お互いのいまのことを話す時、どうしても過去のことに触れざるを得ない時がある。これはたぶんだけど、彼女はそこにものすごく神経を使っている。そのようすが見えるたび、私は圧倒されるような気持ちになる。この人は今まで、一体何回の絶望を経験してきたんだろう。そのたびに、きっと地獄のような痛みを抱えて、重たくなった体と頭をどうにか持ち上げて、ここまで歩いてきたんだろうとおもう。そのやさしさは、その地獄たちのせいでしょ?そう思って、あまりにもはてしなくて、泣きそうになる。
私が惹かれるのはさ、その強さと、その薄い氷みたいなやさしさなんだよ、わかってる?
いやわかってるわ、と、たぶん彼女は言わない。